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予示
声の主が見付からないまま、トンネルを抜け、またトンネルへ。
それでも歩き続けていると、歩道の傍で比較的綺麗な新聞を発見した。伊野上はそれを拾い上げ、表面に被った砂埃を手で払った。
『長野中央自動車道トンネル事故から十年。惨劇の中の奇跡を振り返る』という見出しが躍っている。
十年前。彼女が学生だったころの事故だが、これほど大きな事故なんてあっただろうか、と首を捻る。とはいえ、自らに関係がない以上、覚えていないのも無理はないできごとであるのも確かだった。
それだけで、気に留めておく必要のない代物になった上、そもそもこの薄暗いトンネル内で小さな本文を読むのは困難を極めた。
かといって、わざわざトンネルの切れ目まで戻るには進み過ぎている。次の切れ目がどれだけ先かも分からないし、次があるかどうかも定かではない。
特に持ち歩く必要はない。そう判断して、最後に何気なくもう一度視線を巡らせる。
——令和……五年?
年号は数年前に変わったばかりだ。過去に“令和”という年号などあっただろうか、と眉を顰める。
そして、彼女は瞠目した。
「二〇二三年……五月……」
新聞が手から滑り落ち、ばさりと音を立てる。
今は平成七年——一九九五年、八月のはず。
だが、彼女の足元にある新聞は、三十年も先の日付けが書いてある。このたった一つの巨大な情報は、それだけで伊野上の理解の許容用を遥かに越え、精神的に疲弊した彼女に苛烈な追い討ちをかけた。
呼吸が短く、荒くなる。
伊野上は取り落とした未来の新聞をひったくり、再び来た道を戻った。脚は自然と速まり、やがて全力でコンクリートを蹴っていた。
奇怪なトンネルの狭間。そこから覗く真夏の太陽はちょうど南中しており、充分過ぎる明るさがあった。
心臓はまだ早鐘を打っているが、やっとの思いで息を落ち着けることができた。しかし、これから取るべき行動を導き出す為、限界寸前であっても、脳は休ませるわけにはいかなかった。
仮に。もし、この未来の新聞が本物であるのなら、ここには自分の知らない、三十年後のできごとが記されていることになる。だとすれば、今、自らが置かれている状況と、未来のトンネル事故は全くの無関係ではないはずだ。
『二〇一三年 五月三十日、長野中央自動車道で発生した大規模交通事故から、今日でちょうど十年の時が経った。“十年”と一口に言っても、鮮明に記憶に残っている読者もいるのではないだろうか。
この事故は、計百五十二台もの自動車が巻き込まれた大事故だったにも関わらず、ただ一人の死者も出なかった、“不幸中の奇跡”と呼べるものだった。
中でも、事故発生から約三十八時間後、取り残されていたもう一人の学生と共に生還した、長距離バスの運転手、「植松 武史」氏は——』
伊野上は新聞に穴を開けるように、関係のないページにまで、隅々目を通した。
新聞の名前も知っているし、テレビ欄から株価や為替、広告まで、偽物にしては質が高い。年月にさえ目を向けなければ、ごく普通の新聞だった。
伊野上は嘆息すると、広げた新聞を折り畳み、今一度問題の記事の続きを読んだ。
『——氏は当時、弊紙のインタビューにこう答えている。
「何故無事に助かったのかは、自分にもよく分かりません。おかしな話ですが、誰かに助けられたような、とても不可思議な夢でも見ていた気がしているんです。それでも、未来ある学生を助けることができて、本当によかった」
氏が語る“不可思議な夢”について、筆者はいち新聞記者として——』
不可思議な夢とは、まさに今自らが置かれている状況のことを指しているのではないだろうか。
伊野上は顔上げた。陽の光を浴びてか、その血色は数分前の土気色から元に戻りかけていた。
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