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 暗い部屋へ入る。足音を殺したはずが、早い労いの言葉が飛んできた。反射で笑顔を装着し、いかにも平気な不利をする。使えないとだけは思われちゃいけない。僕の中、ポリシーの完成は早かった。 「キリさんもお疲さまです。さすが仕事が早いですね」 「ナチは少し遅かったな。次はもっと簡単なものを回そう」 「……すみません」  ナチはコードネームである。無論、キリもそうだ。仕事を始めて一ヶ月、思いの外依頼件数は多かった。死を願うほどの深い憎悪も、金持ちも多いのだと知った。  貧困の差も裏の世界も、知っていたつもりで知らなかった。警察直々に依頼が入ることも、強盗や密売など、あらゆる悪行がこれほど多かったことさえ。  相手の事情など考慮せず、依頼が来れば殺す。それが殺し屋の鉄則だ。相手が例え愛情深く、幸せに生きている人でも――心臓が潰される感覚に陥る。一瞬呼吸のテンポに迷い、持ち直した。 「疲れたナチに愛情をあげよう」  黒い影が起立する。月光の圏内に入った顔が、麗しく映えた。今すぐ体を抱き締めたい。弾けそうな情を、冷静な演技で押さえ付けた。こんな汚れた体では、明るい世界へ立ち入れない。 「先にシャワーを浴びてきます。顔の血、ちゃんと鏡見て落としてこないと」  自然体で逃げた。今の僕はナイフを武器としており、仕事の度に汚れてしまう。銃の訓練はしているが、不向きなのか上達しなかった。  ナイフ越しに肉感が伝えば、あの日が蘇り吐き気に襲われる。けれど、僕は死ぬまでこの仕事をやめないだろう。既に確信している。どれだけ心が歪もうと息が詰まろうと、報酬(愛情)を経験してしまった以上、もう。    彼の与えてくれる“愛情”はハグやボディタッチ、キスが全てだった。それ以上は今後もないと思われる。上を行く方法を知る僕にとって、惜しく感じることはあった。しかし、それさえ掻き消す優しさが、キリの手のひらからは伝わってくる。まるで、本当に僕を愛するかのような、錯覚を招く手つきなのだ。  嘘を前提とした愛の行為。それも、ただそっと触れるだけの淡い接触ばかり。それでも十分に心を癒す技が彼にはある。いや、僕が単純なだけか。今日も頑張ってよかったな、なんて思ってしまうなんて。  僕は既に、心の底からキリが好きだ。端からみれば馬鹿らしいだろうけど、これが僕と言う人間だ。
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