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第五章 市井
なけなしの路銀で最初に買ったのは男装である。いつまでも宮女の服で街を彷徨くわけにも行かない。本当は剣が欲しかったが、文無しになってしまうのは問題である。宮女の服がなんとか売れたので、あまり手持ちを減らさずには済んだものの、旅が長く続けば手元に戻ってきたばかりの鼈甲の櫛を売る事も視野に入れなければならない。
そうでなければ、何か稼ぐ方法が必要だった。しかし首都は何をするにも物価が高い。先生に手紙を書いて、返事を待つ間の宿代はもちそうにない。とりあえず、まずは物価が安い方へ移動するしかない。
私は自由の身になったら行ってみたい場所があった。母の生まれ故郷の〝雲峰〟だ。騎馬民族の領土となってしまい、今の名を〝皓特拉尔〟というらしい。北峰を避けるなら、蔡北を通り抜けていくのだろう。
いつか行きたいと朧げな夢だけ持っていたが、今やどうせ行く宛もない流浪の民だ。北の果てを目指すのは悪くないと思った。時はまだ5月、夏を涼しい場所で過ごすのは悪くない。また、訛りの強い南方に向かって、余所者の自分が馴染めるか自信もなかった。
陛下が育った場所を見てみたいという気持ちもある。未だに陛下に対する気持ちはあった。夜伽は無かったにせよ、陛下は私を抱きしめて何度も夜を一緒に過ごしたのだ。陛下はすぐに私を忘れるだろうが、きっと私は陛下を忘れることはないだろう。
私は淋しさを紛らわすように、ひたすら歩いた。首都は広い。後宮・紫琴宮の周りを囲むようにして貴族の屋敷が立ち並ぶ中海京の関所を越えると、一気に庶民的になる。私は、中街と呼ばれる庶民の繁華街に宿をとり、夜を明かすことにした。
正直白樂京の関所越えるのに、旅仲間が欲しいなと思っている。まずは安全、そして節約。おんなじ方向に行く誰かを見つけたかった。夕暮れ時、飯店は忙しい。腕に自信ありそうな屈強な男たちが、皿を並べて酒を喰らい、宴会をしている。飯店の娘だろう。明るく元気な年頃の若い娘が働いている。私もどんぶり飯を注文する。
「おにいさん、初めて見る顔ね。中街も初めて?どこぞの少爺がお忍びで来たかとビックリしたわ!」
御曹司にみえるということは、やはり市井の人間に馴染めていないようだ。しかし男性に見えているならそれで良しとするしかない。輿や護衛がない場合、女性の旅には危険が多い。
「ねえ、なぜ少爺と思うの?」
女性に見えなくても金持ちの子息に見えるのは損だ。
「まずは顔が綺麗すぎるし、肌は白すぎる。それに手が…働いた事ない手だわ。」
そう言って少女は自分の小さな手を見せた。
「小さくて可愛らしい手じゃないか。働き者の手は美しいよ」
少女は私の言葉に頬を染めた。すこしドギマギしている様子だ。
「あなた、首都は初めて来たんでしょ。明日なら中街を案内してあげてもいいわ」
少女は小梅と呼んでといい、私が泊まっている宿を告げると「うちの飯店に泊まればいいのに」と言った。
翌日、約束通りに小梅が訪ねてきた。働いていた時とは違い明るい黄緑色のヒラヒラした服を着ている。爽やかな5月の新緑に映えて可愛い。小梅の恋心を利用するようで気がひけたが、せっかくだから中街を案内してもらうことにした。もう死ぬまで首都に来る事などないかもしれない。
午前中は市街地を巡り、お昼を一緒に食べて、午後は郊外まで巡り、市場で小梅イチオシの肉餅を買う。川のほとりで腰を下ろした。
「昨日は半分冗談のつもりで誘ったけど、やっぱり本物の少爺だったのね。一緒にいて痛感しちゃった」
「少爺ではないよ、親が決めた結婚から逃げて、流浪人の状態だからね」
何でも話せる朗らかさが小梅にはあった。親切に朝から案内してくれた小梅にあまり嘘はつきたくない。
「おうちはどこなの?」
「北峰で商家をやってる。僕の母は早くに亡くなって、第二夫人の息子が家を継ぐんだ。家出したはいいが、仕事も家もこれから探すところで文無しだから、少爺ではないよ」
僕がそういうと、小梅は笑って答えた。
「文無しなのに女の子に奢ってくれるところが少爺なのよ。いいわ、この街でやっていけるように私が助けてあげる」
微笑む小梅に私も微笑み返した時、向こうから男性が歩いているのが見える。市井の服装ではあるが、風に靡く布地は明らかに上質である。姿勢も歩き方も優雅で平民とは明らかに異なっているが、軍人のようにかたくない。同じ格好には見えても明らかに違う。小梅も、目を奪われて固まっている私の視線の先を見て言った。
「ほら、お忍びの少爺ってすぐ見分けられるでしょ。あなたもおんなじよ」
おんなじなわけなかった。私たちの方に歩いてくるのは良家のご子息ではない。皇帝陛下に違いなかった。
陛下は呆気にとられている小梅に微笑みかけ、陛下は私の肩を抱いた。
「いつの間に女の子をひっかけているとは、お前も手が早すぎるな!」
小梅は陛下に微笑みかけられて、顔を赤く染めて俯いている。
「仲良くなったなら、この子も家に連れて帰ろうか?」
陛下の手は私の肩をギュッと掴んで、その手を離す気は全くないようだった。
「追っ手…の方…?」
「まあ、追っ手だね。こいつは俺の大事な人なのに、何も言わずに家出したから急いで追いかけて来たんだ。どんだけ逃げても必ず追いかけて捕まえてやるけどね」
きっと今、小梅は少爺が親の結婚を嫌がり、家出した理由を勘違いしている。
「今夜はコイツの宿に泊まらせてもらおうかな。明日は俺の邸に連れて帰るけど、コイツが女の子を気にいるのは珍しいから君も一緒に邸に来たらいい。給金はずむよ」
小梅は親と相談しますと答えた。そして、陛下は私と一緒に中街の宿に戻ったのだった。
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