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「大変だ! 火事だ! 森が燃えているぞ!」  深夜、外から誰かの緊迫した声が聞こえ、目が覚めた。  居間に出れば、父と祖母も外の異変に気づいたらしく、無造作に服を重ね着して外へ出る準備をしていた。僕もそれに倣い、手に付いた服を着こむ。  外へ出ると、集落の人たちが同じように見た目など気にしていない服装で、狭い道から次々と現れては裏の山へと歩いてゆく。  なにも近づく必要などなく、(かえ)って邪魔になることも多いと思うのだが、このようなとき、何故かヒトは出来る限り近くで眺めようとするのだ。  僕がのろのろと坂を登り始めたときには、既に地元の消防団が消火活動を始めていて、小さなポンプで必死に散水していた。それと同時に、幾人かの有志が人垣を押しとどめ、火災現場に近寄らないようにもしていた。  沢山の背中に近づくにつれ、バチバチと木の()ぜる音が大きくなる。  濃紺の天を朱と黒と白と、そして木が倒れる音が(おびや)かす。  野次馬は皆、何をするでもなく、森が壊れていく様をじっと見ていた。  僕も、野次馬だった。何もしない、何もできない。  ただ、朱色の炎が森を呑み込んでいく(さま)をじっと見ていた。  そして何回目かの大きな音が聞こえたとき、頬を撫でるような柔らかい風が吹き、濃紺の空に赤い花びらが舞った。  それはひらひらと気ままに揺れながら連なり、海へと流れ、闇に溶けた。  不意に、いつか見た彼女の横顔が頭に浮かび、次には布団で目を覚ました。  外は薄っすらと明るい。  あれは夢だったのだろうかと。  けれど、僕の服装はパジャマの上に無茶苦茶に重ねたままであり、あれは夢ではなかったのだろうと。  そのまま居間に出れば、父が土間にいて、漁で使う道具を選んでいた。 「起きたか」 「うん。おはよう」 「急に倒れて、そのまま布団に運んだんだ。大丈夫か?」 「うん」  父は安心したように息を吐き出すと、再び漁具を手に取る。そのまま、一人で漁に出かけるのかと思っていたのだが、「行くか?」と聞いてきた。僕は「うん」と答え、もぞもぞと着替える。  波止場に行けば彼女と会えると思ったからだ。  根拠はない。子供の勘だ。 「おや、今日は大丈夫なのかい?」  そうこうしているうちに祖母も起きてきた。「うん」と答え、次には昨晩のことを口に出す。 「昨日の火事はひどかったね。オタキ様のお(やしろ)は大丈夫だった?」 「ああ、確かにひどかったね。誰かが放火したんじゃないかって噂だね。ところで、オタキ様のお(やしろ)っていうのは何のことだい?」  僕はギュッと目を(つむ)り、もう一度開いて祖母の顔を見る。その顔はいつもと変わらず、冗談を言っているときの顔ではない。  瞬きをして、祖母を見る。やはり、変わらない。 「あ、行かないと」  僕は思い出したように父を見て、漁港を目指した。 「おお、おはようさん」 「おはよう!」 「おはようねえ」 「おう!」  夜も明けきらぬうちから漁港はいつも通り起きていて、(せわ)しなくする人、のんびりと準備をする人、空と波を見る人たちがいた。父と僕の姿を認めると、何人も声をかけてくる。だから僕は聞いてみたのだ。昨晩の火事のこととオタキ様のことを。  だが、結果は祖母と同じで、一様(いちよう)に火事のことは覚えていても、オタキ様のこととなると首を傾げるばかりだった。  不思議に思いながらも、僕はいつもの特等席に座り、西の空を眺める。いつもとは違う、薄い紺の上に茜色の帯が広がるのを見て、山の方へと向き直す。深夜の火事は既に(しず)まり、痛々しい炭の棒が墓標のように林立していた。途端に、木が焼け焦げた不快な(にお)いが辺りに立ち込める。  鼻を曲げながらも、彼女が来るのではないかという、自分の予感だけを信じて山を眺めていた。  墓標の上では紺が徐々に青に変わり、その下から茜、橙、黄がせり出してくる。  やがて、山の稜線を強い光の帯が走った。  そして、彼女は来なかった。  その日の波はキラキラと穏やかで、小春日和になりそうなことだけが僕の希望になった。  小学校が終わり、希望通りに良く晴れた高い空の下を僕は力なく歩いていた。  家が近づくにつれて、家の前に二つの人影が見えてくる。  一つは父、もう一つは見慣れない女性。  いや、更に近づくと、見慣れない女性は見慣れたはずの女性となった。  二人の会話が聞こえてくる。 「あなた、ごめんなさい」 「うん」 「……私、悪い夢をみてたみたい。もう一度、ここで暮らしてもいいかしら?」 「うん」 「おかえり、お母さん!」  思わず叫び、途端に恥ずかしくなった僕は、小さな声でもう一度「お帰りなさい」と言った。  ――これが、今になって思い出した、小さな僕の物語。  あれから何十年も経った。  それからの僕は、火事のことも、オタキ様のことも、夕暮れの彼女のこともすぐに忘れ、中学生になり、宇和島市内の高校に通い、大阪の大きな工場に就職して集落を出た。そこで知り合った6歳年上の女性と結婚し、普通の人生を歩んだ。  子供も成人して家を出て、両親と大阪の家で一緒に暮らすようになったとき、父が言ったのだ。死ぬ前に故郷の景色を目に焼き付けたいと。  そして12月に入ってすぐの頃、僕は妻と両親を連れてあの(ひな)びた漁村を目指した。  松山の旅館に一泊し、翌日、大洲・宇和島方面に車を走らせる。  風も穏やかで天気もいい絶好の観光日和。  両親の引っ越し以来、久し振りに訪れた故郷はやはり(ひな)びたままで、ただ、色の良い県道だけが現代であることを教えてくれた。  4人揃って集落を歩き、旧知と昔話に花を咲かせた。  集落のほとんどが反対した別荘地の開発は予定通りに終わり、当初は売れたのだが、バブルの崩壊とともに所有者の手を離れ、不動産会社も夜逃げした。今では子供の頃のように鬱蒼(うっそう)と木々が生い茂り、放置され、朽ちかけた家屋だけが、かつてここに別荘地であったことを物語っている。  夕暮れ時、お喋りを存分に楽しんだ父と母は、疲れたと言って車に戻り、妻はそれに付き添っている。  僕は集落を見納めなければならないとして、波止場に来ていた。  係船柱(けいせんちゅう)に腰かけ、茜色と紺色のグラデーションが移りゆく(さま)をじっと見つめる。最近ではマジックアワーなどと呼ぶようで、なるほど、これは確かに魔法のような不思議な光景だなと思う。  もう太陽がほとんど顔を隠したとき、懐かしく、しかし言い表せない匂いが鼻を通り抜け、僕は忘れていた記憶を思い出したのだ。  ああ、そうか。あの匂いは――  もしかしたら、僕だけはまだ魔法にかかっているのかも知れない。  だってほら。耳を澄ませば今も聞こえて来るんだ。 「おはよう! ねえ、君って、いつもここにいるよね」 【マジックアワー 完】
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