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一
「おはよう! ねえ、君って、いつもここにいるよね」
紺色が橙色に釣瓶落としのように混ざり合っていく時間帯。
いつものように波止場の先端でそのグラデーションを眺めていると、見知らぬ女性に声を掛けられた。
思えば、彼女との別れはこのときから始まっていたのだろう。
これは、まだ幼かった僕の初恋と失恋の物語。
*
僕が生まれ育ったところは、西に豊後水道を臨む小さな漁村だった。
低い山々に囲まれた入り江の漁港、段々に建てられた茶色の平屋と狭い路地、そして寡黙な父と優しくてお喋りな祖母が、小さな僕の世界の全てだった。
僕は、この世界の空と海が大好きだった。
或る日、漁港と家々の間を貫いていた県道の幅が広くなった。それと合わせるように、北側の斜面に次々と綺麗な住宅が建ち並んだ。鄙びたここいらの家とは違う、白い壁に赤や青や黄色の屋根の群れは、子供の目にもとても綺麗で、そして、そこだけが遠い異国のようにも感じたものだった。
けれど、僕の生活は何も変わらなかった。小さな尾根を二つ越えた先の小学校に通い、夕方になる前に家に帰る。食事が終われば、無精ひげを生やした坊主頭の父と、いつもにこにこしている祖母に学校のことを話す。
毎日が幸せだった。
その日々の中で、僕はもう一つの幸せを見つけた。
日曜日、漁港に父を迎えに行ったときのこと。日中、海をキラキラと輝かせていた太陽が、もうほとんど顔を隠した夕暮れ時に、ふと目撃したのだ。海の黒と天空の紺色が昼間の残り火を挟み混ざり合う、幻想的で美しい光景を。
初めて目にしたその美しさに、僕の心は遥か波の彼方にあり、迎えに行ったはずの父に声を掛けられるまで、戻ってくる事はなかった。
その光景に何を感じたのか今となっては思い出せないが、それからというもの、祖母か父に断っては週に何度か、漁港の波止場でそれを眺めることが、僕の楽しみの一つとなったのだ。
やがて食卓にキビナゴが並ぶようになった頃、波止場の先端で係船柱に座り、空と海を眺めていた僕は、見知らぬ女性から声を掛けられた。
「おはよう! ねえ、君って、いつもここにいるよね」
まだ太陽が水平線を泳いでいる時間。背後から知らぬ声を掛けられた僕は、係船柱に腰かけたまま身体の向きを変え、挙動不審に相手のことを見る。
波止場でポツンと佇む街灯のスポットライトを浴びる彼女は、空色のハイネックカーディガンに白いブラウス、9分丈の深緑のズボン、そしてスニーカーに身を包んでいた。そして、僕と目が合うと、陶器のように滑らかな肌を崩してニカっと表情を作った。
その人懐っこい笑顔には、返事をためらう僕を気にした様子もない。
「君、地元の子かな?」
「ええ、まあ……」
その聞きようからして、彼女は旅行者か白壁の家に住んでいるのか。
一呼吸してみれば、見た目二十歳前後と思われる彼女には、敵意は見えず、親しみを感じる。
「隣、いいかな?」
「どうぞ」
見知らぬ人ではあるのだが、11歳の僕に警戒の仕方など分からず、ただ大人の女性の言われるがままに返事をしたのだ。
快諾と受け取った彼女は、そのみずみずしい翠眉を上に少し動かして、嬉しそうに僕の隣に膝を抱えてしゃがみこみ、水平線を眺め始めた。
「ここから見えるこの時間のこの景色ってとてもいいよね。まるでこの世のものじゃないみたい」
話しかけられて声のした方を見ても、彼女は水平線のグラデーションに顔を向けたままだった。もうほとんど影になってしまった横顔で、長いまつ毛が存在を主張し、肩までの髪が柔らかく風に揺らめく。はたして髪は何色だっただろうか。
しばし、その影に目を奪われ、何やら悪いことをしているような気持ちに気付いて、夕陽があったところに視線を戻すと、今にも夜に溶けてしまいそうな太陽の跡が、大きな弧を描いているだけだった。
それから1分も経たないうちに「あ、もう行かなきゃ」と、彼女は立ち上がり、「じゃあね。また明日」と足早に去っていった。
ふわりと二つの微かな匂いを残して。
この匂いはどこかで嗅いだことがあるのだけど、はたして何の匂いだっただろうかと考えながら、軒先の白熱灯が出迎える我が家に足を向けた。
引き戸の玄関を開けてガラガラとガラスと木のぶつかる音を立て、「ただいま」と叫べば、漁具が置かれた広い土間の向こう側、上がり框もない居間から祖母のお帰りという声が聞こえる。父はこちらを一瞥した後、祖母に顔を向けた。
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