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 彼女と2回目に会った日の翌日。  重い灰色の雲が朝から頭の上にのしかかり、小学校が土曜日で早く終わっても、帰る頃には冷たい雨が音を立てていた。  大人用のコウモリ傘を差した小さな僕は、天の機嫌に引きずられるように陰鬱(いんうつ)な気分で家路につく。 「ただいま!」  そんな気分を吹き飛ばしたいがために、あえて元気に挨拶をすれば、丁度、父と祖母が居間でお茶を飲みながら、おやつに小鯵(こあじ)の味りん干しを摘まんでいるところだった。 「うん」  とだけ父は言い、 「おかえり。濡れちゃっただろ?」  と祖母が言う。 「びしょびしょになっちゃった」  と、くしゃみ混じりに僕が返すと、 「そこのタオルで()いて、早く着替えな」  と、土間のハンガーに無造作にかけられた、大きなタオルを祖母が指さす。  僕が着替え終わる頃には、外の天気は一層悪くなり、雨がバタバタとガラスを叩くようになっていた。 「こういう日はオタキ様の話を思い出すねえ」  風と雨が強い日の祖母は、決まってこうだった。  オタキ様。  それは、この集落の裏手、鬱蒼(うっそう)と広がる山の森に住んでいると伝わる妖怪か幽霊か、ともかく人ではない者のことである。  僕の家の脇から家々の合間を通る、軽トラック1台しか通れないような、車には狭く、歩くには十分な幅の道を登っていった先に、その曰く付きの森は広がっていた。  祖母が子供の時分にはその道はまだ現役で、尾根を一つ挟んだ隣の集落との行き来に使われており、深夜にその道を使った人からは、木々の間に朧気(おぼろげ)に浮かぶ朱色の光と、その(かたわ)らで空を見て佇む女官や巫女のような白い影を見たと、(おど)かすように話されたことがあるそうだ。  そして、そう言った話は少なくとも江戸時代からあったらしい。大抵は見ただけの話で、特に何かされたということはないのだが、中にはいかにも村の言い伝え然としたものもあった。  200年前の或る日、空が洗朱(あらいしゅ)とも薄紅(うすべに)とも言えぬ色に染まったことがあった。  村人たちは変わった夕焼けだとは思ったが、その夜、一人の女性が家々の戸をドンドンと叩いては、顔を出した村人に、夜が明ける前に(くだん)の森に逃げ込めと触れ回ったのだ。  これは只事ではないと、多くの村人は彼女の言うことに従って、松明(たいまつ)を手に森へ入った。  果たして、翌朝。(にわ)かに吹き荒れた大風(おおかぜ)と高潮が集落を破壊したが、多くの村人は森に避難して無事だった。  命を助けられた村人たちは、お礼を言うために彼女を探したが、しかし、村の誰一人として彼女のことを知らず、また、なぜ自分たちが準備よく火のついた松明(たいまつ)を持っていたのかも分からなかったのだ。  そのうち、一人の村人から「あの女はオタキ様だったんじゃないか」という声が上がり、村人たちは名もない小さな石のお(やしろ)を作って、オタキ様へ感謝を捧げたのだという。  気象レーダーもない時代のことだ。変わったことがあったら、ためらわず避難しなさいという教訓と、得体の知れないオタキ様への(おそ)れが結びついたのだろうと、大人になった僕は思う。  オタキ様への感謝はあの日まで受け継がれていて、僕も祖母に連れられて、お(やしろ)に何度か掃除に行ったことがあるのだが、本当に小さなものだった。かと言って、目立たないことはなく、山の中にあって、なぜかその周りにだけ早咲きの椿があった。  祖母がオタキ様を口に出した風雨の日は、波止場への立ち入りを禁止されることが容易に予想できたため、見えない夕焼けを見に行こうとすら思わなかった。  明けて日曜日。雨は小降りになり、空の鈍色(にびいろ)も軽く見える。  このまま夕方までに雨が止み、波も低くなれば、お気に入りの係船柱(けいせんちゅう)で彼女を待つことも出来るだろうと、午前中の僕は思っていたのだが、その日の夕方も小雨(こさめ)が降っていた。  けれど、頭の中には彼女の横顔と「来れたらね」の言葉が浮かぶ。    もしかしたら、いるかも知れない。  そう思った僕は、大きなコウモリ傘を差し、波止場へ偵察に出かけた。  しかし、彼女はいない。  もしかしたら、来るかもしれない。  いつもの係船柱(けいせんちゅう)(そば)で、灰黒(かいこく)の空と海を前にじっと立つ。  もしかしたら、すぐ近くまで来ているかも知れない。  そう思った途端、後ろから声がした。 「帰るぞ」  気付けば辺りは真っ暗になり、懐中電灯を持った父が僕を迎えに来ていた。
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