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 月曜日。  その日は天色(あまいろ)の高い空がどこまでも続くいい日だった。  小学校から帰った僕は、今日こそ彼女に会えるかもしれないと、茜色に染まりつつある空の下、馴染みの係船柱(けいせんちゅう)に腰かけ、ぶらぶらと足を振る。  今日は会えるかも知れない。  今日はもっと仲良くなれるかも知れない。  空の機嫌の良さに僕の期待も高まっていた。 「おはよう! ねえ、君って、いつもここにいるよね」  背後から声がした。  透き通るような声がした。  振り返る。  街灯の下に彼女がいる。  笑っている。  視線が合った。  頬が熱を持つ。  僕の心臓が暴れる。  それを隠そうと叫んだ。 「こんばんは!」  何の変哲もない、普通の挨拶。でも、これが、そのときの僕の精一杯だった。 「隣、いいかな?」  返事も待たずに彼女は僕の隣に立った。あの匂いが漂う。何か、何か、何か。思い出そうとしても思い出せない、しかし懐かしい匂いが。 「ど、どうぞ」  すっかりと彼女が水平線を眺め始めた頃に、僕は(ようや)く返事をした。 「ふふ、ありがとう」  上目遣いに彼女を見る僕に、彼女は上から微笑を浴びせた。  僕の心臓はいよいよ挙動が怪しくなり、(こら)えきれずに、橙色と紺色のグラデーションを眺める。何をしたら良いかと、存在の疑わしい昼と夜の境界線を探し始め、瞳が勝手に動く。  そうだ。これは言っておかなければ。 「昨日も待ってたんだよ」  照れ隠しに、語気を強めて口から出してしまう。 「ええ!? 雨が降ってたのに大変だったでしょう? お母さんに心配されなかった? ごめんねー」  今まで橙色だった空が茜色に変わり、紺色も圧迫の度合いを強めてきた。 「お母さんは、……いないんだ」 「そう、なんだ」 「何年か前にいなくなっちゃった」  波の向こうを眺めながら会話する。  散り際の茜色を一生懸命に反射する。 「寂しい?」  彼女が聞いてきた。その顔がどこへ向いているかは知らない。 「寂しくないよ。僕、男の子だもん」 「そう」  半分だけの太陽が、波の向こうで揺らめいていた。 「あ、もう行かなきゃ」  時間ばかりが過ぎ、太陽の名残が薄っすらとなったとき、いつものように彼女が言う。「バイバイ」と、微笑みながら手を振り、立ち去る彼女を、僕はじっと見る事しかできなかった。 *  火曜日。  学校の先生や父や祖母に感謝することもなく、小学校がお休みであることを漫然と受け入れた勤労感謝の日。  僕は朝から父と一緒に釣りに出かけた。場所はいつもの波止場だ。青い空に薄い雲が流れ、波は少し高い。  11時前に斬り上げるまで釣果(ちょうか)(かんば)しくなかったが、久しぶりに父から釣りを教わったことに上機嫌に帰ると、祖母がタスキを掛けて勇ましく待ち構えているではないか。 「どうしたの?」  と僕が聞けば、 「開発業者がオタキ様の森に入れないようにしたんだ! 許せない!」  と鼻息が荒い。  憤懣(ふんまん)()(かた)なしという言葉が似合う祖母の話によれば、父と僕がまだ釣りをしていた時間帯、集落の老人がいつものようにオタキ様にお参りをしようと坂道を登っていた。  ところが、昨日まで無かった工事用のバリケードと立ち入り禁止の看板に、行く手を阻まれてしまったのだ。その近くにいた作業員に「これはどういうことか」と声を荒げて(たず)ねたところ、「俺たちは何も知らないから、会社に聞いてくれ」と返され、ひとまず引き下がったらしいのだ。 「あいつら、私たちがいう事を聞かないからって、遂に強硬手段に出たんだ!」  あいつらとは、祖母たちが以前から反対運動をしている土地開発業者のことだろう。聞かずとも祖母が勝手に説明してくれたことには、1年ほど前、(くだん)のお(やしろ)がある山頂一帯を整地して、豊後水道を優雅に眺める別荘地にしようという計画が持ち上がったらしい。  計画した会社は、用地の買収を進めつつ、何度か周辺住民を相手に説明会を開催したが、オタキ様に変わらぬ感謝を捧げているこの集落の住民たちは(かたく)なに反対していたのだ。しかし、集落の誰も開発予定の土地を所有しておらず、用地の買収が完了した業者は準備は万端と工事を開始したのだとは、想像に(かた)くない。 「私はこれからみんなと一緒に抗議に行ってくる。あんたもおいで!」  勢いで誘われた僕が立ち入り禁止の看板付近で見た光景は、大声で怒鳴り散らす人、黙って睨む人、声を揃えて開発反対を叫ぶ人、そしてそれらを困惑した顔で一身に受け止める、眼鏡をかけた真面目そうな顔の現場監督らしき人だった。  僕はその感情のうねりに混ざる気には到底なれず、後ろの方でただただ、早くこの喧嘩が終わるようにと祈っていた。
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