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「カラオケ」と書かれた大衆的で毒々しい看板はいかにも安っぽい。それを渾身の思いで作り上げた店の前に出すのは嫌だった。
それでも生きて行く為には仕方がない、夢と現実は相容れないものだ。
やるせない気持ちを抱えながら、「BAR MINE」の文字が浮き立つステンレスのカルプ看板を見上げた。せっかくお洒落なのにと溜息がでる。
「BAR MINE」の店主である清水が中堅の上という位置付けの地味な大学を卒業してからずっと勤めていたのはこじんまりとした地方銀行だった。
職業柄、脱サラしての事業立ち上げがどれほど困難で失敗率が高いかも嫌程見てきたのだ。
融資なんかアテにしていては小さなトラブルや時事によって引き起こされる数日の不況であっという間に破綻する。閑散期だから仕方がない、天候が不純だから仕方が無い、そんな油断が簡単に破綻を招いてしまう、日、一日が正念場であるべきなのだ。
だから拘りに凝り固まってもしょうがない。
さりとて拘りを捨てたくも無い。
信用が売り物だった銀行勤めの中、かなりの圧はあったが結婚しなかったのもBARを経営するという夢と信念があったからだ。個人資金を貯めて、貯めて、上京してから漸く手に入れたのはウナギの寝床のような細長い店舗だった。
我ながらキッパリとした脱サラだったと思う。
必要最低限だけの内側を業者に任せ、残りは自分でやった。大量の古い煉瓦を産廃業者からただ同然で譲って貰えたのはラッキーだったと思う。
毎日普通の軽自動車に積めるだけ積んで店まで運び、セメントと漆喰で壁やカウンターを煉瓦で覆った。
出来上がったのは古い廃トンネルのような雰囲気の人生を掛けた夢の城だ。
仕入れの段取りをしながら公衆衛生や食品衛生責任者資格を取り、営業許可を取ってからやっとの事で開業にこじ付けた時には50がもう目の前だった。
「カラオケね………カラオケだけど…」
BARを開業するにあたり、内装や雰囲気の他にも拘りがあった。
店の奥にひっそりでいい。
ステージなど要らないしマイクの音量は最低でいい、そこで、生オケとまではいかなくても、ギター一本でもいいから生演奏で歌える店にしたかった。
とある客は聞くとは無しに聞いている、とある客は普通に会話を楽しむ、それでいい。
イメージとしては声のいい親父がアコースティックギターに合わせてしっとりとマイウェイを歌い上げたりする大人な空間だった。
勿論だが下手くそもいるだろう、演歌を歌う親父もいるだろう、しかし、その為の生演奏なのだ、店の雰囲気に合わない選曲でも演奏で聴かせる、粋なアレンジを加えてもいい。
静かに飲みたいだけの客の邪魔をしない程度で、しかし、ある日思わぬ場所で思わぬ達人に出会い、得をした気分で家路に付く、そんな空間だ。
「甘いよな……」
そう。
開店している間、演奏が出来るミュージシャンを常時雇える程潤沢な資金などある訳はない。
しかし、ここで諦めたら人生を投げ出してまで開業した意味が無くなる。
客を増やし、収支を保つ為にはカラオケの配信サービスを導入せざるを得なかった。
勿論だが、凝りに凝った内装に大型のモニターなんか置かない、歌詞は楽譜立てに置いたタブレットだ。それが嫌ならカラオケボックスにでも行けばいい。
粛々と業務をこなしていけば、趣味を同じくする常連だって出来るはずだ。
ある日、いつか、例えば雨の土曜日なんかに知った顔だけでマイウェイの熱唱が聞ける日もあるはずだ。
だから、だから、大学の飲み会サークルに占拠され、「何とか48」の陽気な曲を歌われてもいいのだ。
そんなメニューは無いのに押し切られた飲み放題も何だかんだで纏まったお金になるからいい。子供の飲む酎ハイやハイボールは格段に利益率がいいから幾らでも飲んでくれ。若く下品な胃袋には究極の価格調整メニューであるポテトフライで十分らしいから楽だ。
金曜日だからと2万も払って来て貰ったギタリストは出番もなく待機したままだけどいいのだ。
近所には短大や専門学校、大学が四つもあるから、この先、本当の「客」として通ってくれる事もあるだろう。
商売は商売だと割り切り、7つも並べたジョッキに味も香りも無い無粋なハイボールを注ぎながら、氷の在庫が心許ないな…と心配をしていた時だった。
飛び込むように入って来た客がズカズカとカウンターの前を通り過ぎた。
ただでもメニューに無い飲み放題を提供しているのだ。勝手な出入りが多い中、何人いるのか、全員がきっちりとお金を払っているのか注視している所だ。知らぬ間に飛び入り参加されて未払いのまま、なあなあで飲み食いさては溜まったものではない。入り乱れるメンバーに紛れてしまわないようにその姿を目で追った。
「近頃のガキ共は……」
歳は取ったが中身まで老けてはいないと思いたいのに、年寄りの定番文句を言ってしまう。
餓鬼と言っても大学生なのだから二十歳前後の筈なのに子供だ。しかし、子供と言っても酒を飲む、飲んだら酔う。そう、子供が酔っ払うのだ、最悪な集団と言える。
出来るなら「若いうちに沢山の経験をしておけ」と胸を叩くカッコいいオヤジでありたいが商売は商売だから無理なのだ。
店内はもう既に、秩序が無い。
先払いを強調したのに幹事らしい青年はカウンターの椅子を勝手に移動させて店の隅でトグロを巻いている。
会費を払う様子も見せずに群れを割っていく新たな客は服装や年齢からして学生には違いない。
しかし、何と無く挙動不審な動きで店を見回し、何をしているのかと見ていると、もう放置され、誰も見向きをしなくなったカラオケのリモコンを手に取って曲を入れた。
「いいけど…」
好きに歌ってくれればいいのだけれど店の手前にあるカウンターには届かないよう調節した筈のボリュームが見る見るうちに大きくなって行く。
本当にいいけど。
何事?と注目が集まっていた所で歌声が聞こえてきた。
「あれ?…」
どうやったのか流れているのは既成の音源らしい。
BAR MINEのカラオケは配信の受信するだけの最低限の機能しか無い筈だ。
CDのスロットルなど無かったように思うが昨今の機械には謎も多い。
「やはりじじいだな」
それならばそれでいい。
そのうちに飲み物か食べ物を注文しに来るだろう。その時にお金を払えと言ってやろうと仕事に戻ろうとしたのだが……ジョッキを掴もうとした手が止まった。
歌声のボリュームが跳ね上がった。
最初は呆然としていた奥にいた学生達が次々と立ち上がり、目で追っていた不法侵入者を隠してしまった。ザワザワと沸き立つ驚愕の声が波のように流れて伝わり、奥に奥に注目して行く。
店内のザワ付きに混ざるワードにどよめきが広がっていく。
「まさか……」
「本物?……嘘…」
「レン…」
「レンだ!!」
出そうと思った声じゃない声がわぁ!!っと広がりドドッと奥に詰めかけて行く。
出口近くにいた学生達も店内の異変に気が付いて集まり出し大混乱だ。
この店はそんなに丈夫な作りでは無い。
煉瓦の壁は強く引っ掻けば簡単に取れてしまうような素人のお手製なのだ。
「レン」が誰かの名前なのか知らない。
知らないが阿鼻叫喚を引き起こすくらいの知名度はあるらしい。
店が揺れたかと思うくらいドォっと湧き上がったのは肌感覚を凌駕するサビの声にだった。
「レンだ」
「本物だ」
何故とか、こんな所で?とかは全部圧倒的な声量に吹き消されて消し飛んでしまった。
こうしてはおられないと体が動いた。
奥に詰めかけていた学生達を押し退けて、這いつくばってでも前に出て、店の奥に作った畳2畳も無い控室に飛び込んだ。
「弾いてくれ!!」
用意していたギターはアコースティックだ。
スピーカーが奏でるカラオケの音量には到底敵わないがそれが何だ。
居眠りをしていたらしい日雇いのギタリストを控室から引き摺り出して、跳ねて揺れていた細い青年に目で合図した。
すると、ギターを見て何かを悟ってくれたのだろう。カラオケの音を無視してシャウトと声だけのスキャットで繋いでくれる。
後は音だ。
何が何だがわかっていないが、ギタリストだって眠気なんか吹っ飛んだろう、カラオケのボリュームを下げると無賃の侵入者が出す声に合わせて取り敢えずギターの音を出した。
「凄い……」
曲に戻った途端、店の中に渦が出来たようだった。
ギターは珍入者の声に合わせてコードを奏でるだけしか出来ていないが、それで十分だった。
音響設備どころか、煉瓦の壁は音を吸収する。
そう狙って店を作った。
しかし、圧倒的な音はそんな会場でも物ともせず、観客と化した学生達と共に極小のコンサート会場へと変貌していた。
「そうだ……動画……」
声に、音に、雰囲気に飲まれている場合では無い。学生達の口から聞こえてくる「REN」が何者なのかも知らないが、今後の店の為にも動画を撮って残さなければとポケットを探った。
しかし、それは叶わなかった。
何があったのか本当にわからないが、目を離した一瞬にシュウっと萎んだように音が消えてしまい、「REN」の連呼を押し退けるように集団の中に紛れてしまった。どうして途中でやめたのか、何があったのかわからないが集団に隠れて姿が見えない。
前に出たい奴、店の出口に向かう奴、右往左往する若者集団に揉まれて、揉まれて、何だかわからないうちに奇跡の声の行方はわからなくなってしまった。
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