詩「赤い情景」

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海沿いの田舎町だった その錆びついた螺旋階段は 影の中の影の 死の中の死だ 白波は気まぐれに言葉を反射する 思えばそれは 熱帯夜の寝苦しいときに見る じめっとした夢のように 幼い頃からずっとあったように思う 確かに兄はいつ自殺してもおかしくなかった 精神病は鏡だ 現実世界の 崩れていく蚊帳の中で 逃げることに必死だったぼくたちは 音を立てないようにガラス戸を開け 青白い月が反射する庭石の影に自らを突き落  としたのだから あの頃は 父も母も姉も飼っていた犬でさえ 顔の中の顔の 影の中の影に飛んでくる 一匹の蚊の羽音に怯え 台所は血の海だった 昭和のラジオは溺死した 思えばあの頃はみんなが徹底的に病まなけれ  ば生きてさえいけなかったんだと 真夜中に聞こえてくる海鳴りの 鏡の中の鏡は 不変の中の不変だ いったい生真面目な兄は真夜中の月に対して  なにを見つめていたのだろうか 確実に訪れる 蚊のような夕暮れの終わりを 両手で叩き潰した兄の 手のひらに残った赤い情景 合わせ鏡じゃあるまいし 寝苦しい熱帯夜に見たあの螺旋階段を ぼくは今でも忘れられないでいる
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