1話:遭遇女神

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*  夕食が終わり部屋に戻ってくる。 「美味しかった……けど。」  食事の満足度には当人の精神状態が大きく影響する。どんなに高等な食事でも、食事をする本人が万全でなければ食事のクオリティは下がる。つまるところ梨心は緊張していてあまり夕食を楽しめなかったのである。 「なんかもう、なんもしてなくっても疲れてくなぁ。今日は早くお風呂に入って寝よう、うん……九時には寝る。」  梨心はホテルの地下一階にある大浴場に向かう。各個室にも浴槽は備え付けてあるが、せっかく大浴場があるのならそちらを利用してみたくなる。 脱衣所で服を脱ぎ浴場に入ると、もうもうと立ち込める湯気。浴場はかなり広かった。さすが良いホテルなだけあるなぁと感心する。  体を洗ってから湯舟に入る。 「あぁ~~~~~~~生き返る~~~~~……別に死んでたわけじゃないけど……。」  風呂はいい。一日の疲労と緊張をすべて溶かしてくれる。つい先刻まで心の大半を占めていた不安はどこかに行ってしまった。まあ風呂から上がったらすぐに帰ってくるだろうが、それでもこの安らぎには価値があるものである。  大浴場だというのに、梨心以外の客はいなかった。時間帯が早いからだろうか……と思っていると、がらがらと引き戸の開く音。他の客が入ってきたようだ。少し振り返るが湯気の向こうのその人の姿はあまりよく見ることが出来ない。ぺたぺたという足音の向き的にシャワーを浴びるらしい。すぐに水音も聞こえてくる。  梨心はかなり長風呂をするタイプだった。別にスマホなどを持ち込んだりしなくとも数十分は風呂に浸かっていられる。風呂は考え事をするのにも単にぼんやりするのにも向いている。この日はゆっくりと移ろう湯気や静かに波打つ水面、自分の白い肌をぼうっと眺めていた。  ふと、足音がこちらに向かっていることに気づく。ちらと見ると先ほど入ってきた客が湯舟に近づいてきた。女性だ。女湯だから当然だが。  しかしその姿を見て梨心は言葉を失った。 「っ………………。」  その女性が、あまりにも完成された肉体を持っていたから。  引き締まっているが決して痩せすぎているわけでもない身体。程よい筋肉。長い四肢。整った顔立ち。長い黒髪はアップで留められ、浴槽の薄暗い照明の光を反射し妖しく濡れていた。身体全体に一分の無駄もない。全身の調和がとれている。梨心はまるで美術館の女神の彫刻が命を持って動いているかのような錯覚を覚えた。  女性は浴槽の梨心と少し離れたところに入る。ちゃぽんと静かな波紋がたち、ゆっくりと拡散していく。  見すぎるのは失礼だと思い梨心は女性から目を離す。しかし思考は止まらなかった。梨心は中学時代によく体を鍛えていたので、ボディビルドの知識をそれなりに持っていた。だからこそあの女性のすごさがわかる。  あれだけの肉体を手に入れるのに、どれだけの鍛練が必要だったのか。どれだけの苦労が必要だったのか。  梨心は今後のことも考えてあの女性からコツでも聞いてみようかと思ったが、やめた。こういう考えは思い付きこそすれ実行しないものだ。初対面の他人に振る話の内容ではない。  女性が湯船から出る。気がつけば梨心もかなりの時間浸かっていた。うわ、腹筋をつたう水滴がなんかもうやばい。スポーツドリンクのCMみたい。  女性はドアの前まで歩いて行くとふと立ち止まり、軽く左腕を振るった。すると、その腕が鈍く光る。次第に身体全体までもが淡く光り始めた。 (魔法だ……!)  先ほどあまり見すぎるのはよくないと思ったばかりだが、こうなるともう目を離すことはできなった。梨心は湯舟から女性の傷一つない背中を見つめる。輝く女性の身体はもはや神々しさを感じさせる程だった。  女性の身体を覆っていた光が左腕に集中していく。そして女性は左腕で何かを払うようにし───。  パシャッ。  左腕から、大きな水の塊が落ちて、弾けた。  女性はそのままスタスタと浴室から出て行った。何事もなかったかのように。日々行っていることをただこなしたといった感じで。  女性が上がったあとも梨心は半ば放心してそこを見つめていた。一連の動作が洗練されすぎていて、美しすぎて、見とれてしまっていた。何も知らない赤の他人のただの日常の動作にこれほどまで魅了されてしまうとは。  うまく動かない頭でかろうじて考えたことといえば、  あの光は、あの女性の水の魔法によって起こったのだろうということだけだ。  少し前にテレビで見た覚えがある。人間が水の魔法を使うと対象となった水は発光するのだ。発光する水を操りパフォーマンスをするアイドルがいたのを覚えている。あの女性は身体中についた水滴を魔法により操り、纏めて捨てたのだ。だから身体全体が光っているように見えた。きっと魔法が使えるようになってから毎日そうしてきたのだろう。流れるような動きだったから。  それからしばらくしてから梨心もお風呂から上がった。当然女性はすでにいなかった。身体中の水を数秒で処理できるから身体を拭いたり髪を乾かしたりする手間がないのだろう。  髪を乾かしている間も、自分の部屋に帰ってからも、寝るためにベッドに潜ってからも、梨心はあの女性のことを考えていた。忘れられるはずがない。明らかに只者ではなかったから。  しかししばらく考え事をしているとだんだんと眠くなってくる。今日は長時間の移動と心労があったので、梨心はとても疲れていた。やわらかな布団に包まれ眠りに落ちる。明日は新しい生活が始まる日。期待と、緊張と、不安とによって跳ねていた心臓が少しずつ鎮まってゆく……。
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