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「カガミさん、この前は実をありがとう。」
「……別に、あれは、私の知り合いが育てただけで。」
カガミに会うのは梨心の定期公演の前日のプール以来だった。学校でカガミに会うには昼休みの菜園しかないと考え、垂雨はカガミにお礼を言うためにここに足を運んだ。垂雨とて混雑が得意ではないが、彼女はそれよりも極度に人そのものを嫌う節があった。そのため、人気の無いここがお気に入りのようだった。
あるいは、ここ以外の居場所が化粧室しか無いのか。
菜園は夏に踊る緑の匂いに溢れかえっており、湿った土の感触を靴越しに感じる。
「でもわざわざ園芸部の方に許可を取りに行ってくれたわ。ありがとう。」
「……ん。」
黒と透明の瞳が照れていびつに歪む。
図書室で荒く調べたところ、例のマルスという実はおよそ百年前、人間が魔法の力を得たのとほぼ同時期に世界中で発見されたらしい。魔力を媒介するという稀有な性質を持ち、未だに謎が多く研究されている植物だそうだ。
そもそも栽培できるようになったのもごく最近の話であり、魔法研究に重きを置いている月命学園だからこそ、学内の園芸部がその栽培を行うことができているということらしい。
垂雨は実っているマルスを観察する。青と白と透明が混ざった複雑な色彩の実は、成程林檎に似た形をしていた。
「この実のおかげで魔力の受け渡しはできたけど……問題は味よね。その子曰く、すごく苦かったらしいの。私が食べても何の味もしなかったのに。カガミさんは食べたことあるのかしら?」
透明な顔がやや意外そうな顔をする。開かれた透明な瞳にわずかに緑が反射した
「……マルスは、魔力を込める人によって味を変えるらしい。そして、実に魔力を込めた本人にはその味が分からないとも、言われてる。」
カガミが細い声で言う。
不思議な性質の実だ。成程、自分の身体の匂いに無自覚であるようなものだろうか。
しかし、実が魔力によって味を変えるということは、垂雨の魔力が苦いということだ。魔力に味なんてものは観念すらしていなかったが、苦いと知ればそれはそれでショックだ。
「……私もこの前、同じ部屋の人に、この実をもらった。あれは……甘かった。」
「そうなのね。」
羨ましい。しかし魔力の味の変え方など分からない。この苦みと付き合ってくしかないのだろう。そもそも垂雨自身には実の味が分からないのだし。梨心を苦しめてしまったのは心苦しいが、これはしょうがなさそうだ。
予鈴が空に響いた。昼休みはあと十分。しかし垂雨が菜園を後にしようとしても、カガミは草地に立ち尽くしたままだった。午後の授業に出ないのだろうか。
「……先に行っているわね。」
本人がそうしたいのなら、垂雨はそれに従う主義だった。一人で教室へ向かうことにする。
去り際。
「えと、あの、垂雨!」
カガミが聞いたこともないような声量を出す。少し距離を挟んで、垂雨は振り返った。
「……何かしら?」
「今日はプールに来るの?」
「———行くわ。」
フッと笑って、応える。
それを見てカガミも少し笑った。一目で慣れていないと分かる笑みだった。
「待ってる、から。」
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