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梨心は部活を早めに切り上げた。病院へお見舞いに行きたかったし、もう鍛える箇所も無くなってしまったからだ。制服に着替えてスタジオを後にする。空は結構明るく、日が長くなったものだと思った。単に部活を終わるのが早かっただけかもしれないが。
梨心が病院へ歩いて行こうと校舎前を通り過ぎたとき、
「廻谷さん。」
カラカラと自転車のタイヤを回して、沖田が通りかかった。
「沖田さん?」
「そっちは寮じゃない……病院か。」
「うん。」
「私もだ。乗っていく?」
「え。」
沖田は自転車の荷台を指し示す。
「じゃあ、お願いしようかな。」
梨心は沖田の自転車に乗り込む。二人乗りは初めてだったのでちょっとバランスが怖い。梨心は沖田に何となく抱きつくような姿勢になる。
「出発するよ。」
自転車はスムーズに発進した。夕暮れと言うには少し早い街道を、普段より少し大きな影が走る。
「その、先日はすまなかった。」
走りつつ沖田が言う。保健室での一連の騒ぎのことのようだ。
「ううん、全然気にしてない……というか、私に迷惑かかる事じゃなかったからね。」
「そうか……。」
梨心としてはむしろ、焦りの感情を爆発させる沖田を見ることができて、少しホッとしたのだ。不謹慎だが、沖田がロアをどれだけ強く思っているかを知れてうれしかった。
しばらく無言で自転車が走る。
「……良い傾向だ。」
風切音の中で、沖田がつぶやく。
「何が?」
「春先より廻谷さんの体重が重くなっている。」
「それ良い傾向かな⁉っていうか、チャリ越しでも体重バレるの!!!?」
「ロアから聞いていたよ。毎日練習に励んでいるって。筋肉量の増加は素晴らしいことだ。」
「そう……。」
等間隔に街灯が通り過ぎる。温い風を全身に感じる。何処かから夕食の匂いがする。
平和な街だった。
「着いたよ。」
そうこうしている内に病院に着く。結構大きめの病院だからこそロアの症状の重さが不安になった。
面会を希望する旨を受付に登録して待っている間、梨心は沖田に公演スケジュールについて説明する。ロアの回復が間に合わなければ梨心は別の道を探さなければならなくなるということも。
「……それはロアからも聞いているよ。十日後に本番の公演があるのだろう。」
「うん。それまでに……どうだろう。」
「それは本人の口から直接聞くことにしよう。きっと説明を受けているはずだ。」
「そうだね……。」
薄緑の壁に囲まれた廊下で、五階から降りてくるエレベーターを待つ。
「……難儀だな……。」
エレベーターに乗り込む際に沖田が漏らした一言が、状況をすべて表していた。
指定の階に着いて、白々しく明るい病院の廊下を歩く。梨心はこの雰囲気が苦手だった。身内が亡くなったときのことを思いだす。
伝えられた病室に着くと、ロアは不在だった。
「いないな。」
「お手洗いかな?」
二人が入口で待っていると、やがて、
「お、もゆるに梨心。お見舞いに来てくれたのかい?」
「ロアちゃん!」
ロアが廊下の向こうから歩いてきた。カシャカシャと点滴を引き連れている。その姿に梨心の心臓は冷える。
「部屋を開けてて悪いね、ちょっと実家から電話があって。」
「本国からか?」
沖田が問う。
「そう、まさか機械嫌いのグランパが掛けてくるなんてね。驚いた……まぁいっか、入って。」
ロアに言われて梨心と沖田も病室に入る。ベッド脇のデスクには大量の花やらお菓子やらが並んでいた。きっと梨心たちの前にも大勢の友人が見舞いに来たのだろう。
人徳の成せる業だなぁと思う。
「その、ロアちゃん、早速部活の話で悪いんだけどさ……。」
ロアがベッドに、梨心と沖田が椅子に腰掛けた後、梨心は先ほど部長に言われたことをロアに伝える。ロアの回復が公演に間に合わなければ、梨心は一人で舞台に立つか、出場を辞退するか、そのどちらかを選択しなければならなくなっていた。
梨心の説明を聞いている間、ロアは目を閉じて黙っていた。
「……という状況なの。」
「……すまない、梨心。私が君を誘ったばかりに迷惑を。」
「謝らないで。それとこれとは全然違う話だし、それに……。」
碧眼と目が合う。
「誘ってくれたとき、すっごい嬉しかった。本当に、本当に嬉しかったんだから。」
あの時差し伸べられた手が、どれほど眩く見えたものか。
再起の機会をくれたあの手が。
「……ありがとう、梨心。でも、いや、だからこそ、謝りたいんだ。」
ロアは少しの悲愴を滲ませて言う。梨心はその気配に押し黙った。沖田も、察したように渋い顔をしている。
「お医者様に言われた。私の炉回乖離症は、回復に二週間以上かかるってね。」
「そん、な———。」
十日後のホープスターズ・ステージには、間に合わない———。
「無理に魔力誘導をした回路全体と魔力腺の損傷が酷いって言われた。このまま魔法を使えば傷が広がってしまう。それに、向こう数日分に匹敵する量の魔力が無理に身体から引きずり出されたからね。炉心が蓄えられる量以上の魔力はどこから作られたと思う?」
「……血液、だな。」
沖田が言う。
「そうなんだ。昨日の燃焼で、私は一気に一五〇〇ミリ近くの血を失った。そりゃ気絶もするね。」
ロアは点滴の管を示す。等間隔に泡立つそれは病人の象徴だった。
「例え回路が治っても、今の私は重度の貧血患者さ。頭が重いし、正直歩くのもしんどい。すぐにステージに立つのは難しいね……。」
全員が黙る。
「何度も言うが、梨心、本当にすまない。君は君が一番取りやすい方法を選択してくれ……なに、ステージがある頃にはそこそこ治ってるだろうからさ、観劇には行くとも。」
ロア常のような笑顔で言う。
「———分かった。分かったよ。」
梨心は床を見つめていたが、やがて静かに言った。
「ステージは十日後……なら私は———」
提示された二つの選択肢を脳内で並べる。一人で立つか、座り込むかだ。
暗い状況に反して、梨心からはわずかに魔力が滲む。回路の損傷で魔力感知ができないロアは気づかない。沖田だけが梨心の次の語を察した。
梨心は顔を上げて言う。
「なら私は、これまで通り『月と一輪の蒼花』と『スタードリーム』の練習を続ければ良いんだね。」
「なッ———。」
「だってロアちゃん、治るでしょ?本番までに。」
第三の選択肢。
薄暗い病室でもなお梨心の目が光る。魔法が漏れていた。
「お医者様の話もっかいしようか?」
「いい。それとは関係無いんだ。」
梨心は身を乗り出してロアに顔を近づける。さすがのロアも身を引いた。
「目を見ると、ロアちゃんがステージに出たいと思ってることくらい分かる。まだ諦めてないでしょ。ならユニットの私が練習を止めるわけにはいかない!」
「——————。」
夕暮れの病室にまた静寂が訪れる。烏の声すら聞こえない。
「そりゃ出たいけど……でも、症例は覆せないよ……もゆる、梨心に何とか言ってくれないか。」
沖田は腕を組んで目を閉じている。
「ロア……。」
顔を上げると、
「毎日一〇〇〇〇歩、難しければ五〇〇〇歩くらいは歩け。」
「もゆる?」
「寝たきりだと足の筋力が弱る。復帰してすぐステージに立てなくなるぞ。」
「沖田さん……!」
沖田は梨心側だった。
「ちょ、もゆるまで!」
困惑するロア。沖田は極めて真剣な顔のまま続ける。
「私は梨心と同意見だよ。ロア、本心を隠すのはやめろ。ステージに出たいだろう。」
「……ステージに出たいのは本当だ!でもそれはそれとして、病気はそう早く治らないだろう!」
「それは、そうだけど……。」
正直なところ、梨心はやりきれないから空元気を言っているだけだった。言葉に詰まる。しかしそこに助け舟を出すのは沖田だ。
「ロア、道が潰えることと、諦めることは違う。それは努力を止める理由にはならない。夢が途絶えても諦めなかった者の前に道は現れるんだ……精神論は嫌いだがな、これは事実だ。」
二人の圧に押されてロアはタジタジになる。また長い沈黙。梨心はロアの決心を待った。
院内の喧騒がまた少し遠くなった頃、ロアがその形の良い唇を震わせた。
「……病み上がりで失敗しても、怒らないでくれよ?」
「怒るわけないじゃない!!!」
「*無言で頷く沖田*」
「そこまで熱烈に迫られてしまったら断るわけにはいかないや。梨心、本当に良いんだね?」
また青い瞳と目が合う。
しかしその目は、先ほどとは全く違う色を湛えていた。覚悟の色だ。
「私はずっと部室で待ってるからね!」
学校からは離れた病院で、互いの決意が結ばれる。
再起を誓う約束は、夕空に輝く一等星よりも眩しく三人の心を照らした。
「ロア、帰る前に布団の上でもできる筋トレを教えておく。まず寝たまま足を上げて……。」
「待ってくれメモするから。」
梨心はそんな二人のやり取りを笑顔で見つめていた。
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