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時間や空間といった現世の諸々から隔絶されていたアリーナを出ると、日が傾くような時刻になっていた。明確にアリーナ内部とは違う空気を全身に感じ、梨心は改めて伸びをした。
夢は醒め、アイドルの残滓は衣装ケースの中に仕舞われた。梨心は制服を纏い、普通の高校生へと戻ったのだ。
学園とアリーナ間の移動はバスだったが、まだ出発まで時間がある。普段はあまり来ない場所なので、見慣れない街並みを眺めることにした。アリーナの敷地内は開けており、石畳の道と芝生が広がっていた。
ぼんやりと周囲を見渡していると、遠くにロアを見つけた。誰か大人と話している。梨心が誰だろうと思ったタイミングでロアも梨心に気づき、手を振ってくる。
駆け寄った。
「ロアちゃん、どうしたの?」
「梨心、笹野さんに声を掛けて頂いてね。」
ロアが示した大人の女性は、月命学園アイドル部の卒業生であり、『月と一輪の蒼花』の作曲メンバーの一人でもある、笹野だった。
「初めまして、廻谷さん。笹野楓と申します。今丁度、キャッスルハート氏と話していたところです。」
「ぇあっと、初めまして!廻谷梨心です!」
笹野は長い黒髪を後ろに流している。夏だというのに黒とブラウン基調のカッチリとした服装だ。落ち着いた雰囲気の女性だった。かつてのアイドル部というが、丁度咲桜先輩が大人になったらこんな雰囲気になりそうだといった感じだ。
「『クィン・ハーツ』の方々。本日は御呼び頂いて本当にありがとうございます。」
深々と頭を下げる笹野。
「そんな、全然お礼を言われることなんて!」
「そうですよ。我々だって、やりたいことをやっただけですので。」
笹野は顔を上げて前髪を払う。
「本日の演技、非常に感動しました。『月と一輪の蒼花』は私たちの代で完成させられなかった未完の曲———まさかこんなに時間が経ってから、客席でその完成を見ることになるとは思いもしませんでした。オルテンシア・コンテストのときよりも、ずっと綺麗でしたよ、二人とも。」
「えぇと……オルテンシアはノーカンってことで……。」
あれは主に梨心のせいでうまくやれなかったのだから。改めて申し訳ない。
「あの曲は当時の私たちには高度過ぎた曲で……いつまで経っても完成させられませんでした。いつしか青い魔法を使える先輩も部を去ってしまい……他の部の協力も仰ぎましたが、結局あの曲は皆から忘れられていきました。」
笹野が眩しそうに目を細める。西日が、ではない。
「私さえも、あの日聴くまで忘れかけていました———それを現代に咲かせていただいたのです。感謝してもし切れません。きっと、難しい道のりだったでしょう。」
実際険しい道のりだった。楽譜を探したりロアが入院したりと、楽曲そのものとは関係無いところでも苦難は絶えなかった。
「それに、二曲目の『スタードリーム』も素晴らしい曲で……あの曲もアイドル部で長く歌われてきた曲です。そして、今年の三年生の代表曲でもありましたね。勝手ですが、新旧のアイドル部が繋がった気がしてしまい……。」
笹野はそこで一旦言葉を切り、
「アイドル部でいて、本当に良かったと思えました。」
「——————。」
真正面からの、惜しみない称賛。舞台そのものだけでなく、そこに至る道程までもを。笹野は元アイドル部だからこそ、その困難を汲んでくれていた。
「泣くのはまだ早いぜ、梨心。」
最早梨心の涙腺の具合を察したロアが肩を叩いた。そして笹野へ向き直った。
「『月と一輪の蒼花』を作ってくださり本当にありがとうございます。この曲は二度と失わせません。絶対にアイドル部の曲として引き継いでいきます!」
「私もっ!絶対この曲を失くしません!」
若いと言うには、あまりにも若すぎる二人。しかしその覚悟を灯した目は、本物のアイドル、いやそれ以上の決然とした光に溢れていた。
それはまさに、アイドル部の歴史と未来を確約する“希望の星々”———。
「……応援していますよ。あなた達のようなアイドルがいて、誇らしいです。」
バスが会場を発つときまで、笹野さんは窓外から見送ってくれた。梨心とロアはその姿が見えなくなるまで手を振った。
暮れなずむ街を行くバスの中で、梨心は膝上の衣装ケースをきゅっと抱きしめた。公演を思い返す。
今回の公演は大成功だったのではないだろうか
じんわりと温かい笑みに釣られて、前回とはその由来を異にする涙が出た。こんなに納得のいく落涙は初めてのことだった。
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