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眼前に広がるのは、海原。
バイクで十五分ほど走った末に辿り着いたのは、海岸だった。
梨心とロアがいる駐車場からは、広い階段が砂浜に降りている。その先には当然、海。月明りを受けて硬質な輪郭を顕わにしている海は、波を砂浜に寄せては返す。海の向こうは一段と濃い黒に染まっており、日中であれば見えたであろう地平線は、夜空と海との境界に曖昧に溶けてしまっていた。
ロアはヘルメットを抱えて歩き出す。梨心もその後を追った。ロアはコンクリート製の階段の中腹に腰掛けた。
「この景色を梨心に見せたくって。」
梨心も隣に座る。
そこから見えたものは、藍の海の上に銀に輝く満月だった。
「……キレイ。」
「そうでしょ。」
満月は寮の窓から見るよりも格段に大きく見えた。クレーターまで見えてしまいそうなほどだ。力強く、それでいて優しく輝くその様は、まるで別の天体のようだ。
「前に一度、ドライブしてた時にここを見つけたんだ。あの時は朝だったけど、後から月が綺麗に見えるスポットだと知ってね。」
ロアは宇宙を見上げながら続ける。
「それで、公演がうまくいったら、梨心と一緒にここに来ようと思った。」
「ありがとう……。」
しばし、二人で月を鑑賞する。朧月と称するにはあまりに玲瓏だった。
波の音。
波の音。
波の音。
「……梨心、感謝してるよ。」
「……何?急に。」
互いに目は合わせない。しかし、同じ月を見ていた。
「私が倒れたとき、真っ先に助けようとしてくれたそうじゃないか。」
「そんなこと、相手が突然燃え上がったら誰だってそうするよ。」
「病院にも何度も来てもらってさ。」
「そりゃ心配だったもん。ロアちゃんすっかり弱ってたからね。」
梨心は何だか気恥ずかしくて、ロアの方を見られない。視界の左端にわずかに赤いものが風に揺れている。
「今だから言うけどね。乖離症で寝込んだとき、私は本当に公演を諦めていたんだよ。」
「え……。」
確かにいつもより弱気になってはいたけど。
「頭が働かなくて、点滴無しでは起きていられないくらいだった。炉心も、まるで反応が無くなっていたし。このまま寝ていたら練習したことも忘れてしまうんじゃないかって思った。第一、お医者様からそんなに早くは治らないと聞かされていたからね。」
それでもロアは完全復活を遂げた。その理由は。
「そんな私を奮い立たせてくれたのは、梨心だよ。」
「……どうも。」
いつにないロアの態度に、反応に困る。
「一人で眠っているときは、本当に不安だった。真っ暗な世界で、私はもう、満足な演技が二度とできないんじゃないかと思った。それでも、梨心が私を信じてくれたから、私も頑張ることができたのさ。」
梨心は口を挟まずにロアの告白を聞き続ける。
「ステージで失敗すると思ってなかった理由を言ってなかったよね。あれだってそうさ。隣に私を信じてくれている梨心がいたから、何の心配も無いと思ったんだ。」
だから君は、私の光だったんだよ。
ロアはそう続けた。
「………………。」
光、だなんて。確かに私は光の魔法使いだけど、光そのものと言われたのは初めてだ。流石にくすぐったい。
ロアの劇的な告白に琴線を綻ばせられ、梨心もまた秘めた心を吐露しようとする。
ロアちゃんは一度失敗した私を、また認めてくれた。
だからこそ、君が倒れても諦めなかった。千載一遇の機会と思っていたからこそ、自分が先に諦念を口にしてはいけないと思った。
私が光なら、君は炎なんだよ。
私の心を灯してくれた。果てしなく熱く、星よりも輝く炎。
……恥ずかしくて、言えなかった。
「……私だって、あのとき、グループ決めのとき、ロアちゃんが誘ってくれたから頑張れたんだ。」
そう言うのがやっと。しかしロアはその背後にある梨心の秘め事の全てを読んだかのように、月光に瞳を煌めかせた。
「今日見た景色は多分、忘れられない。アイドル部の誰と組んだって、見える景色は素晴らしいはずだ。でも、あの景色は、梨心としか、『クィン・ハーツ』であるときしか見られないと思うんだ。」
梨心の左手に、ロアの右手が重なる。グローブ越しではない、すべらかな素肌の感触。少し驚いたが、触れ合う手をそのままにする。
「梨心、こんな私で良ければ、これからもまたあの景色を見に、ステージへ連れて行ってくれないか。君としかあの景色は見られないんだ。」
握られる手に力が籠められる。思わずロアと目が合う。精悍な顔は真剣そのものだが、瞳の中には本当にわずかに、懇願する子供のような幼さもあった。
これが彼女の、ロア・キャッスルハートの、本心だった。
「……もちろん、断るわけないじゃない。むしろ私からもお願いしたいくらいだよ。」
照れ隠しに、空いている手で自分の髪を撫でる。
「じゃあ私たち、相思相愛ってことかい?」
ロアが喜色を滲ませ、いつもの得意げな顔で言う。
「……そうだね。」
肯定するには些か迷ったが、何、アイドルが愛を謳わないでどうするというのか。
折り重なる手は、目に見えずとも交錯する運命が、丁度現世に析出して形をとったかのようだった。
「これからもよろしくね、ロアちゃん。」
「ああ、よろしくね、梨心。」
肩に互いの体温を感じながら、寮の門限が迫るまで、二人は宇宙へと続く大洋の中にいた。同じ時間の中にいた。同じ風の中にいた。同じ光の中にいた。
重なる手。二人きりの約束。心海の縁。海翔る銀月だけがそれを見守っていた。
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