エピローグ:みんなの夏

1/1
前へ
/93ページ
次へ

エピローグ:みんなの夏

 人気の無い廊下。空気が停滞しているので、埃すら漂っていない。  今日から夏休みに入り、寮の廊下は閑散としていた。学校がある日と違って、人の動きが少ないのだ。そんな廊下を進む。トランクの車輪が絨毯に凹みを作った。  普通の服に、普通のカバン。出寮の手続きといい、道行く人々といい、駅に時間通りに来る電車といい、あまりにも世界だった。普通の、現実世界。  やはりあのステージは夢だったのだろうか?と、不安になってしまう。  梨心は肩に掛かるカバンの紐を背負い直した。その重さと、引きずるトランクの質量もまた、梨心を現実という平面に立たせていた。  駅のホームで目当ての電車を待つ。汗が流れる。辺り一帯が熾烈な日光と、蝉の鳴き声に満ちていた。蝉も太陽も、まだ朝早いというのにご機嫌なことである。  入学してから、初めての遠出だった。電車やバスに乗って出かけることはあったが、それらはいずれも学校周辺のことだった。県をいくつも横断するような移動はこれが初。  だって夏休みだもの。  梨心は一分の遅滞も無くホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。 * 「今日から休みだというのに、練習に行くのかい?」  ロアはジャージに着替えた同居人に語りかける。冷房があるのになお夏を感じる室内において、そこだけ気温など無視しているかのような涼やかさでポニーテールが揺れる。 「私は毎日そうするよ。夏季休業こそ、力を付ける機会だ。」  沖田は細長い石剣袋を担いだ。その手際、足取りに迷いは無い。 「そうかい。一日目の朝から健勝なことだねぇ。」 「ロアは何も用事が無いのか?」 「無いね。大きな公演を終えたばかりだし、休憩期間さ。」  沖田はベッドに転がるロアに何か言おうとして、止めた。自堕落にも見えるが、ホープスターズ・ステージにおいて彼女がどれほど己の身体に負担をかけていたかを考えれば、休みの日くらい寝かせたままで良いだろうと感じたのだ。また倒れられると困る。一日中そのままなのは流石にどうかと思うが、せめて昼頃までは休ませておこうと思う。  同室の沖田しか知らない、無欠のアイドルのプライベートな姿だった。 「……少しは身体も動かすんだぞ。一日五〇〇〇歩くらいは。」 「はーい。」  そう忠告するに留め、沖田は部屋を出た。廊下は屋内とはいえ、部屋との気温差は雲泥だ。端的に暑い。 「……夏休み、か。」  珍しく独り言を言うと、音に反応して無意識に魔力が揺らいだ。  窓の外には陽炎が揺れていた。 * 「今日なんて、絶好のプール日和ではなくて?」  問われて、ほんの一瞬だけ気持ちが上を向くが、すぐにそれに意味が無いことに気が付いた。 「プールには行かない……。」 「何故?」  カガミは、鋭い日光から目を守るように顔を枕にうずめた。頬に髪がかかる。 「……水都さんがいないから。」 「あら、そうなの。」  同じ部屋の相手は、鏡台の前で長い髪を編みこんでいる。毎朝セットするのが大変そうだと思う。亜麻色の髪は、漆黒のカガミとは対照的な輝きを有していた。 「前までは一人でも行っていたのでしょう?」  確かに垂雨と出会う以前は、一人でも泳げていた。しかし今となっては、彼女がいなければ水に身を賭す気分にならなかった。 「良い天気なので、私は菜園に行ってきます。あなたも来ますか?」 「……いい。」  寝たまま返事をする。 「そうですか。昼食の時間までには起きるんですよ~。」  言い残して、彼女は部屋を去った。扉が閉まる音を、そちらを見ずに聞き届ける。一瞬だけ外気に接続された部屋に、温い空気が流入した。  垂雨は現在、帰省しているらしかった。この前寮のフロアで、誰かと夏休みの日程について話しているのを聞いてしまったのだ。彼女は今頃は故郷に帰っている。  それに応じて自分のやる気もどこかに行ってしまったようだった。浮力の無い地上で、重力に逆らえずにベッドに押し付けられている。  自分の夏休みは、これで良いのか。 「………………。」  それも、垂雨が帰って来てから考えよう。 *  冷房が効いた暗い部屋に、コントローラーの音が二人分。 「激ローサイン入った。逃げる前に倒せるかな?」 「罠置いといたよ。」 「グッジョブすぎ!よしかかったな、撃て撃て!」 『メインターゲットを達成しました』 「ナイス~。」 「ナイス~。」  六華と鮎子はテレビの前に陣取りゲームにいそしんでいた。隙間無く閉じられた遮光カーテンは電子光を受けわずかに彩られている。 「いや~ゲーム、冷房、アイス!これぞ夏休みだねぇ~。」  鮎子が感嘆の声を漏らす。 「今まで中々まとまった時間取れなかったからね。今のうちに素材回収し尽くしちゃおう。」  六華もアイスを口にしながら答える。教室で授業を受けるときとは違い、眼鏡を掛けていた。液晶用のものだ。 「そうね~二人同時にゆっくりできる時間って案外少ないもんね。」 「次行こっか。何狩る?」 「今のもう一回行く。」 「おっけ。受注するね。」  鮎子の提案を受け、六華の色白の指がコントローラーを弾く。生産数の少ない限定仕様のコントローラーだった。 「あ、もうすぐお昼だね。何食べようか。」 「寮ってデリバリー可能なのかな……?」 「グレーなことは止めておこうか……。」 *  止まない携帯のバイブレーションで目を覚ました。どうせすぐスヌーズに入るだろうと放っといていても、振動は全く収まらない。観念して液晶を覗くと、電話が掛かってきていた。  面倒な相手だ。無視しようかとも思ったが、呼び出しが止まる気配が無かったので渋々出ることにする。 「もしもし?」 『ちょっとミツキ!何で全然出ないの!』  開口一番で叱責だ。これだからうちの母親は。 「えーっと、寝てた。」 『もう昼の一時じゃないの!』 「ええやん夏休みなんだし。何か用?」  お叱りを続けるなら切ってやるぞと思いながら要件を促す。 『あんた、帰省の予定は?』 「あたし帰らんよ。」 『えーっ!折角みんな集まるのに!』  それが面倒だから帰らないのだ。親戚の集まりになんて顔を出したくない。 『今度の土日に一家総出で食事会があるのよ。家族と親戚が全員揃う機会なんて滅多無いんだから。来ないなんて言うてるのあんただけよ!』 「面倒やもん。」 『絶対来なさいね!最低でも二泊以上はすること!』  一方的に言い置かれて電話が切れた。あーあ。 「帰省かぁ~……。」  暗い画面を睨む。  全く持って理不尽だ。なぜ時間と金をかけて嫌いな場所へ馳せ参じなければならないのか。食事会と言っていたな。母さんは酔った大人達に囲まれる高校生の苦労が分からないのだ。そもそも母さんも飲むし、あたしのことなど知ったこっちゃ無いのだろう。一家総出という状況になることが重要なのだ。  そして何より面倒なのは、 (あたしがアイドル部だって、話してたっけか……。)  家柄的に、ややもすれば浮ついた事をしていると文句を言われてしまいそうだ。嫌だ嫌だ。本当にそうなってしまえば押し入れにでも閉じこもってしまおう。  夕方まで寝るつもりだったのに、眠気が完全に消えてしまった。意識が覚醒すると急に空腹を意識する。  購買にでも行こう。 *  鈍行列車が古い橋を渡った。山間を流れる川を見下ろすと、綺麗に澄んでいる。  繁茂する草木を掻い潜るように伸びる線路を、列車は忠実に沿う。時折電車にあるまじき振動に揺られながらも、垂雨は流れる景色を楽しんでいた。学園があるような都会では感じられない、圧倒的な緑の支配。この景観が好きだった。  始発の電車に乗ったのに、既に昼過ぎになってしまっていた。長い間乗車して、ついに目的地に到着する。古ぼけた駅名標は錆が表面積の大半を占めていた。  改札を出ると、壮麗な山が目の前にあった。その向こうには巨大な白雲。そして青空がある。植物の匂いが濃い。深呼吸をした。  駅から実家までは徒歩で行くことになる。大した距離ではない。舗装されていない土道を進む。  歩きながら垂雨は、先ほど通り過ぎた河川のことを思っていた。  川は透き通っていて、泳ぐと気持ちよさそうだった。昨今は水難事故の報道が多いので一人で川に入らないことを決めていたが、昔は親に連れられてよく泳いでいた。小学生の時には、よくあの川で泳いだものだ。  背負う鞄の中に、存在感を感じる。  競泳水着を持って帰ってきていた。  入学時に、水泳を続けるか迷っていたために学校に持ち込んだ水着。もしも高校で水泳をしないことを選択したなら、この夏休みの帰省で水着を持ち帰るつもりだった。  しかし今水着を持っている理由は、実家に仕舞い込むためではない。  短い帰省の期間であっても、一度くらい、あの川で泳げないかと期待して持ってきたのだ。  高校に入学してすぐの時点では、自分がまた前向きな気持ちで水に入ることなんて信じられなかった。それが今では、わざわざ水着を荷物に含めるほどになっている。  垂雨はあの定期公演を思い返した。  そして必死すぎる顔で自分を心配してくれた友の顔も。  何が起こるか分からないものだ。  昼食を頂いたら、父母か祖父母に水泳の監督を頼み込もう。垂雨は蝉と野鳥が騒々しい田舎道を家まで辿った。 *  電車とバスを乗り継いで、ようやく目的地にたどり着いた。やはり学校と家は離れているなぁと思う。入学式の前日も移動に長い時間がかかったことを思いだした。  あれからたった四か月くらいしか経っていない。それなのに何故、実家周辺の街並みがこうも懐かしく思えるのだろうか。  人生でこんなに長い期間家から離れたことは無かった。だから故郷の景観が久々に見えるのか。  それとも学校での出来事が濃密な体験すぎて、実際以上に長い時間を過ごしたと錯覚した?  きっとどっちも理由に含まれるだろう。しかし、後者の割合が多そうだ。  春風と共に発った家に、夏風と共に帰ってきた。今だけ私はアイドルから女の子に戻る、だなんて、脳内でカッコつけてナレーションしてみる。別に普段も全然女の子をしているのに。  ともかく、久々に実家に帰ってきたのだ。羽を伸ばさせてもらうことにする。手始めに録画を頼んでいた『ホープスターズ・ステージ』の地上波放送を見よう。  チャイムを押す。表札には「廻谷」の文字。 「ただいまー!」 〈了〉
/93ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加