「つま先に火をつけて」

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…家に着いたら、Bluetoothのイヤホンを調べようか。一つ一つそうして広げて、知っていけたらいい。 今度会う時は、彼の好きな音楽を聞いてみよう。初めて知るその音楽を聴いて、どう感じるか私を知りたい。 「ばいばい」誰も居ないベンチに向かって小さく手を振れば、私はもう一度ゆっくりと走り出していた。 静かに冷たい夜のとばりがおりている。歩道を歩く皆は、俯きながらどこか暖かい場所を求めながら歩いている。 私も同じ夜の中にいる。夜の尻尾を見つめるように、ほの白く照らすライトのその先を見ている。 少し寂しくて嬉しい夢の中に居るようだった。心は宙に浮いて、かすかな息の音で自分を思い出す。 信号が青に変わればアクセルを踏みながら、私は心さんが踊っていた曲のサビを口ずさんでいた。 ジャッキーに聞かせるように、優しく歌いながら。ハンドルを握り、とんとんと指先でリズムを取る。それが、車内の空気の中にすっと馴染んでいく。おおらかに優しく響いて、ジャッキーも口ずさむように見えた。 心さんのダンスが、言葉が、空気が、私の指先を柔らかく動かしている。その響きが、いつまでも胸を叩く。 わくわくしてくる。歌う度に寂しさは消えて無くなり、ただ自然と笑みが零れ落ちて微笑むのが分かる。 全部は覚えていない。時折でたらめになるけど、それすらも愛しい響きになる。背筋が自然と伸びていく。 静まり返る夜の中には、よく響く。音にもしも色があるなら、あたたかなオレンジ色で私とジャッキーを深く包みこんでいるだろう。孤独と悲しみに敏感だった私の心が、温かくて、柔らかい膜に今包まれている。 その中でじんわりと溶けていくのが分かる。 涙ぐむような愛しさが溢れてくる。好きな人を見る時の優しい気持ちと似ている。 ただ慈しみたくて、優しくありたくて、境目がなくなる。自分を飛び越して、気持ちが胸元を突き上げる。 上に引っ張られる感覚にも似ている。人生は明るくて、楽しいものに思えてくる。手を繋がれた気持ちにも似てる。 心の中に灯りがつく。そのほの温かさが私を動かしている。私も心さんを照らしたい。照らしてくれたように。 ただ隣に居るだけでなく、もっと何かをしたい。がっかりさせたり、上手く慰める事が出来ないかもしれないのに。 それでも、そう思う事を止める事が出来ない。幾重にも厳重にかけられていた鍵が、今開かれて溢れ出している。 この目に映る全てのものが美しく見える。空も、月も。街灯の一つ一つが、ささやかなぬくもりが湧いてくる。 もう三十路なのに、数秒ごとに少女に戻っていくようだった。この瞬間から、心が確かに戻る実感があった。 世界が一緒になって、喜んでくれている。新芽のように芽吹いて、小さな花が今咲いている。明るくて優しい色。 『ひかりさん』彼の声が温度も持って、胸の中で動き出す。恋しさと一緒に、穏やかな熱が流れていく。 何よりも代えがたい。寄せては返すように、ただ心さんを一心に想い続ける。心さん、心さん、と心の中で呼ぶ続ける。 私を運ぶこの恋は、今とても遠くに運ぼうとしている。今まで見た事もない特別な場所に連れていくかもしれない。そこには何があるかも分からない。全てを手に入れるかもしれないし、全てを無くしてしまうかもしれない。ただ分かるのは、もう後戻りは出来ないということ。心さんを忘れるなんて決して出来ないこと。ただ流れるままに身を任せて、恋をした自分を知るという事だ。 いくつも通り過ぎていく街灯の灯りが、ジャッキーの顔を照らす。優しいオレンジ色に染まっていく。 歌を口ずさむ度に、もっともっと聞かせて!と彼女の顔が言っているようにも見えた。何度も何度も口ずさみながら、彼女と二人で夜の中を走る。 今が過ぎていく。過ぎ去っても寂しくはない。もう怖くなどない。歌う度に、心が聞こえてくるから。 お家はもうすぐそこ。真っ直ぐに目指しながら、ジャッキーと笑い合う。夜の中をただ優しく走っていた。
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