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「つま先に火をつけて」
父と母の間には愛はないのに、この世に私は生まれた。人よりも透明な形をして生まれた。私の隣に生きている人は、家族。家族という人の事。
そこに愛はなくても、大人にはなれた。何も解決しないまま、上手く生きれないまま、ただ仕事を毎日こなして、生きる振りをした。
私の存在のなさは、仕事場でも同じで、陰で「透明人間」だと呼ばれながらただ生きていた。
****
「ねえ、橋本さん。どうしても外せない用事があるから、残りの仕事頼んでもいい?」
いいかな?でなく、いい?だ。彼女の中ではもう答えが決まっている。私が断らずやると。
パソコンを叩きながら顔だけ振り返れば、岩本さんはもう自分の肩にバックを掛けていた。じゃらじゃらと付いた白い大粒のパールは肩に強く食い込んでいて、見てるだけでも痛い。
「ねえ、お願い!橋本さんいつも仕事早いし!橋本さんが困った時は、絶対私が代わるから!」
こういう時、彼女は「顔」を使い分けるのが上手い。困り果てたように眉を八の字にして、目を潤ませ、唇を窄める。
毎日嘘をこんなにもつくのが上手いのなら、いっそ女優になれば良かったのに。心の中で思いながら、「いいですよ」と放り投げるように返事した。
放った返事の皮肉にも気付かず、彼女は喜んで、「困った時はお互い様だもんね」と笑いながら書類を私のデスクの上に置いていった。
…これが残り?ほとんどしてないも同じじゃない。さっと見れば、喜々として歩き始める後ろ姿に向かって「死ねばいいのに。」と小さく呟く。
どうせもう私しか居ない。皆上司に上手い事言い訳して、サービス残業する事もなく、さっさと帰っていった。
ここに居る人達は、上手く生きるのが上手いんだ。自分のために誰かに何かを押し付けたり、無視したり、誤魔化したりが出来る。
私が下手なだけ。真面目に頑張って、真面目に残って、誰かの分もこうして働いている。自分の時間を削って。
無機質なパソコンの画面を見ながら、たた数字を叩き込む。岩本さんの仕事もさっさと片付けて早く帰る。それが今出来る復讐だろう。白いオフィスの中でただ一人、動き続ける。データを作りあげて、コピーを取って抜けがないか手早く確認して、ゴミ捨て場に捨てるように岩本さんのデスクに放った。
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