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唐突にもたらされた言葉に、訳が分からなくなる。そもそも若い男というのが誰の事なのか、ロランには分からなかった。それよりも何よりも、ただ男の剣幕に圧倒される。同時に、紛れもない恐怖が沸き上がってロランは唇を震わせた。
「よく、分からないのですが……、あなたは誰……ですか? 所属と……、っ」
所属と名前をと続くはずだった言葉は、無様に引き攣れた喉に引っかかって出てこなかった。男から距離を取らなければと、そう思いはするものの、ロランの足は恐怖に竦んでいた。せめてもの救いは、ガブリエルがこちらに向かっているという事実だけだ。
――っ、早く……ガブリエル…。
ろくに確認もせず、男を自ら部屋に招き入れてしまった事を、心の底から後悔してもし足りない。忘れようのない過去の記憶がフラッシュバックして、目の前が暗くなる。震える足をどうにか動かそうともがきながら、ガブリエルが早く来てくれる事だけをロランは願った。
「落ち着いて、……話を……」
ゆっくりと近付いてくる男の足を、視線で追う。もうあと数歩もすれば、男は目の前にやってくるだろう。
「っ、……ぁ…」
「あんなに俺に優しくしたくせに、本当は若い男が良かったのか!?」
「……な、にを……」
息が上がってまともに話すことも出来ず、ロランは竦み切った足をもつれさせた。尻もちをついた床の上を、どうにか後退る。伸ばされる男の手がスローモーションのように迫り、ロランは必至に首を振った。
男の手が肩を掴む。ただそれだけで、ロランは大きく躰を震わせた。呼吸すらままならなくなる。
「ぃ、ゃ……」
「あんたさっき、誰ですかって聞いたよな!?」
「っ……」
「俺を忘れたのかよ!? 若い男が出来たら用済みだってのか!?」
男の言う事は、何もかもが理解できなかった。というよりも、恐怖に混乱したロランの耳には言葉にすら聞こえていなかったのだ。男の手で肩を揺さぶられ、増々ロランは混乱していった。
「……た……すけ…て」
そう、ロランが言葉を絞り出したその時だった。不意に目の前の男が消える。否、消えたように見えた。実際は、男の襟首を大きな手が掴んで引き剥がしたのだが。もちろん引き剥がしたのはガブリエルである。
男が離れる間際、肩を掴んでいた手が外れた弾みでシャツのボタンが幾つか飛んでいたが、ロランには気にする余裕もなかった。
「あーあ、人の嫁こんなに怯えさせてくれちゃって……。どうしてくれるんだよ、おっさん」
聞こえてきた声はロランにとって耳慣れたもので、張り詰めていた気持ちが急速に和らいでいくのがわかった。
「お前ッ!!」
「通路にまでアンタの声、丸聞こえだったよ。おかげでこの有様だ」
ガブリエルは軽々と男を通路へと放り出した。そこには、騒ぎを聞きつけてやってきたクルーの姿がある。
ドアを閉める余裕すらないほどに、男は逆上していたのだろう。部屋に入るのに苦労はなかった反面、騒ぎに駆け付けたクルーのせいで、手荒な真似は出来なくなった。
騒めくクルーたちに見守られる中、ガブリエルは男のそばにしゃがみ込んだ。胸倉を掴んで引き寄せると、耳元に低く囁く。
「アンタさ、自分が命拾いしたって分かってる? って言っても、見逃すのは今だけだからな。ロランを泣かせた落とし前は、きっちりつけさせるから覚悟しておけよ」
掴んでいた胸倉をガブリエルが離せば、男は脱兎のごとくその場を逃げ出した。慌てて避けたものの、ぶつかられた幾人かの口から非難の声が上がる。
立ち上がったガブリエルは、わざとらしく頭を掻いてみせた。
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