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トンと、押し出されたロランの躰をガブリエルは咄嗟に受け止めた。いつの間にか、躰に纏わりつくような空気が消えている。
「返してやるよ」
「ッ! 貸した覚えないけど?」
「くくっ、動けなかったからってそう拗ねるなよ」
明らかな揶揄いを含むクリストファーの表情はいつものそれで、ロランは安堵の息を吐いた。もう二度と、クリストファーのあんな顔は見たくない。
ロランがクリストファーに抱く感情は、”慈愛”というそれに他ならなかった。
接していた時間が長いのもあるのだろう。それに、職業上仕方のないこととはいえ、ロランの元を訪れるクリストファーは必ず怪我を負っていた。時には意識を失ったまま運び込まれてくるクリストファーを、ロランは主治医としてずっと診続けてきたのだ。情が沸かないはずもない。
「ちょっとクリス! 威嚇するならガブリエルだけにしてくれるかな!」
「はん?」
頭上で交わされる他愛もない言い合いを聞いていれば思わぬところから苦情が飛んできて、ロランはクリストファーとともにロイクへと視線を向けた。そこには、青ざめた顔で座り込んだハーヴィーと、それを守るように立つロイクの姿がある。
「僕のハーヴィーを怖がらせるなんて……。いくら君が相手でも、許せることと許せないことがあるよ」
「フレッドみたいな台詞を吐くのはやめろ。調子が狂う」
「良いだろう。君にも僕と同じ苦痛を味わってもらうから、覚悟しておくんだね」
「……ミシェルに手を出したらどうなるか、分かって言ってるんだろうな」
「先に手を出したのは君だよ、クリス」
どうにも収まりのつきそうにない言い合いに、ロランはガブリエルへと目を向けた。クリストファーとロイクが殴り合いでも始めてしまったら、本当に収拾がつかなくなってしまう。
「はいはい。いい大人がつまらない言い合いするのはみっともないよ。恋人が大事なのはわかるけど、どうせ揉めるんだったら本人同士でやりな? 誰にも迷惑の掛からない場所で、二人だけで、ね?」
「随分生意気な口を利くね、ガブリエル?」
「それは元から。っていうか、ハーヴィーが威圧に過剰反応するのって、それ、ロイのせいでしょ? 痛いとこ思い出したからって八つ当たりするところ、父上とそっくりだよね」
やれやれと首を振るガブリエルを、ロイクの鋭い視線が射抜く。と思えば、シュッと風を切る音が聞こえると同時に、ロランの躰を抱えたガブリエルが数歩分の距離を飛び退いた。
ドスッと、壁に何かが刺さる。
「え?」
「危ないなぁ、本気で狙ったでしょ今」
「僕はいつでも本気だよ」
にこりと、柔和な微笑みとは裏腹に、ロイクの碧い瞳に冷たい色が浮かぶ。恐る恐る壁へと目を向けたロランは、深く突き刺さったペーパーナイフを認めて恐怖を覚えた。あんなものが躰に当たったら、命に係わる。
「ロイ……、危ない真似はよしてください」
「僕は、クリスに謝罪してほしいだけだよ」
「っ、……クリストファー……」
あまりにも無力な自分を恨めしく思いながら、ロランはクリストファーへと縋るような視線を向けた。
「もう分かったからそんな目で見るな鬱陶しい。俺が謝れば気が済むんだろう」
「ふん、土下座しても許されると思わないでほしいね」
まるでフレデリックが二人に増えたような気分に駆られ、クリストファーは眩暈を覚えた。どれほど有能で、優秀で、俊秀であろうとも、性格がこれでは宝の持ち腐れというものである。否、非凡な才能を持って生まれたからこそ、欠けているのかもしれないが。
「巻き込んで悪かった、ハーヴィー」
「ぅ……、私こそ、すまない……」
「どうしてハーヴィーが謝るのかな?」
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