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その夜、ロランはガブリエルの部屋で休むことになった。昼間のような件があった以上はと、フレデリックからの命令というのもある。
シャワーを浴びて出てきたガブリエルの背中に、痛々しく変色した痣を認めてロランは眉根を寄せた。
「躰は、大丈夫ですか?」
「うんまあ、これくらいは平気だよ」
どこか力のない返事に、ガブリエルが落ち込んでいるのがわかる。それでも、ロランにはどうしようもなかった。慰めの言葉は、ガブリエルも望んでいないように思う。
「コーヒーでも淹れましょうか」
ロランがガブリエルの部屋に入ったのは初めてではあったが、船室にあまり違いはなかった。クルー専用の船室は下層にあるために窓はなく、ただこざっぱりと使い勝手だけが重視されている。
キッチンに立ったロランは、棚の中にミルを発見して手を伸ばした。ガブリエルが持ち込んだものだろう。
「私がいて、ご迷惑ではないですか?」
「何で?」
「今回は、あなたに誘われて、という訳ではないでしょう?」
「意地悪だなぁ。ロランと一緒にいられるのに、嬉しくないはずがないでしょ?」
「こういう時は、ひとりになりたいものではないですか?」
「ロランって、カウンセラーだったっけ?」
「一応、資格は持っておりますよ」
船医というものは、専門的な分野に精通していればいいというものではない。乗船できるスタッフの人数が限られている以上、多方面に明るいことが求められる。
「ひとりになりたかったらさ、ひとりになれる場所に行けばいいだけだよ。そうじゃないから俺はここに居る」
ロランの挽くミルの音が、耳に心地良かった。
「良い音。……ずっと聞いてたいね」
「音が、好きなのですか?」
「うん。嫌いじゃないかもね。ミルの音って、なんか落ち着かない? まあ、ここじゃエンジンの音が邪魔だけどさ」
「それは仕方がありませんね。ディーラーにでも転職しますか?」
「ああ……そういえば、ディーラーって一般の客室使えるんだっけ」
「クリストファーは、そうですね」
ディーラーといっても、一般の客室を与えられる者は限られる。それなりに客を呼べない限りは、クルー専用の区画に部屋があるのは変わらない。
そもそも、クルーの殆どは相部屋で、ロランやガブリエルが一人部屋であるのは主任や副統括といった肩書が付いているからに他ならない。
「なんていうかさ、うちの人間って、みんな才能が有りすぎて困っちゃうよね」
「あなたが、それを言うのは間違いですよ。ガブリエル」
「ええー? 俺だって、弱気になる時はあるんだよ?」
「慰められたい時も?」
「ロランになら、それも良いかも」
ソファの背もたれへと腕をかけて、ガブリエルが振り返る。
「慰めてくれる?」
ちょうど、淹れたばかりのコーヒーカップを二つ手に、ロランはガブリエルの隣へと腰を下ろした。
「そんなに投げやりなあなたの顔は、初めて見ましたね」
「呆れちゃった?」
「いいえ。あなたがそんな姿を見せてくれるのは、嬉しいですよ」
「貴重だから、目に焼き付けておくといいよ」
「そうしましょう」
受け取ったカップを、ガブリエルはすぐに口へと運んだ。
「熱……」
「大丈夫ですか?」
「うん。美味しい」
ともすれば泣き出してしまいそうな若者の横顔から、ロランは視線を外した。どんな言葉をかけたら、この若者の気持ちを和らげる事が出来るのだろうか。
「悔しい、ですか?」
ガブリエルがカップを置いたのをきっかけに、いつかと同じ問い掛けを投げかける。
「……くやしい…ッ」
「ッ……」
絞り出すような声が聞こえて、ロランは咄嗟にガブリエルの躰を抱き締めた。引き寄せるがまま、胸に当たる金色の頭を掻き抱く。
なぜか、この若者の涙を見てはいけない気がした。否、今はまだ、そこまでの関係ではないとロランは感じたのだ。
「ごめん。今だけだから……」
「そんな寂しい事を言わないでください。私は、あなたが強いからそばにいる訳ではありませんよ」
「……Merci」
くぐもった声が、胸に響く。微かにシャツを通して感じる濡れた感触に、ロランは金色の頭へと顔を埋めた。
「お礼なんて言わないでください。あなたはいつも、私を守ってくださいます。だから、こうして甘えてくださるのが私は、嬉しくて……」
低くエンジンの音が響く部屋で、ロランはずっと、ガブリエルを胸に抱いていた。
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