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Day.20
その日は、どんよりとした曇り空だった。これといって大きなイベントもなく、船内を歩くゲストの姿もどこか少なく感じる。
そんな閑散とした船内を、制服を纏ったフレデリックは颯爽と歩いていた。何か目的があるであろう歩調に、声を掛ける者はあっても写真を強請るような無粋な客はいなかった。
目的地は、珍しくもロイクの執務室である。昨日の、ガブリエルに対する行為への苦情の申し入れ。……ではもちろんない。
昨日の一件は、クリストファーから報告を受けているフレデリックである。ホテルスタッフの件は、ハーヴィーから報告書を提出されているが、本社に報告はしていない。ハーヴィーには申し訳ないが、男は解雇されることなく永遠の眠りにつくことだろう。
――うちの子においたをしたあげく、僕の経歴に擦り傷を付けるなんて有り得ないよね。
フレデリックがそんな事を考えながら歩いていれば、ガブリエルとばったり出くわした。
「やあ、父上。それとも、今はキャプテンの方が良いかな」
相変わらず口数の多いガブリエルに、フレデリックはにこりと微笑んだ。
「その様子じゃ、まだ傷心中……というところかな?」
「……まあ、知ってるとは思いましたけどね」
「知らないはずがないね」
「お怒りですか?」
「どうして僕が怒る必要があるのかな? ロイに負けたのは、僕じゃない」
フレデリックの言葉は本心だったが、ガブリエルにはどう聞こえていただろうか。
「借りは、きっちり返します」
「そうだねぇ。そうでないと、僕も困る」
「ッ……。はい」
「そんな顔をしないで? キミを手放すつもりはないよ」
さらりと自分によく似た色の髪を撫で梳いて、フレデリックは微笑んだ。
「まあ、気が向いたらトレーニングくらいは付き合ってあげようかな」
そう言って、フレデリックはガブリエルの背中をばしりと叩いた。
「いッ――……!」
「あっははっ。下を向いて寝なきゃいけない悔しさを、せいぜい味わいなよ」
「ッ、ほんっと、性格悪いな!」
「顔が良いからね」
誰かがどこかで言った台詞を、フレデリックは宣った。
「それじゃあ、僕は用事があるから失礼するよ」
「早く行ってください」
「拗ねない拗ねない。あぁそうだ、せっかくの休みなんだしロラン先生に診てもらったらどうだい?」
「とっとと行けッ!」
「あははっ、またね」
背中に鋭い視線を感じながら、フレデリックは再び目的地へと向かって足を踏み出した。腕に嵌められた時計を確認すれば、予定時刻まで五分を切っている。
――まあいいか、相手はロイだし。
普段は飄々としている若者の、傷ついた姿を見たら思わず時間を食ってしまった。これが家族に対する愛情なのかと問われれば、答えなどフレデリックは持っていないが、まあ、応援くらいはしてやりたくなる。
果たしてフレデリックが目的地へと到着したのは、予定時刻を一分ほど過ぎた時刻の事だった。
「失礼するよ」
ノックの返事を待つこともなくドアを開け放ち、フレデリックはロイクの執務室へと足を踏み入れた。同時に、小首を傾げるそのすぐ間近を、シュッと空気を切り裂く音とともに何かが通過する。フレデリックの背後で、ドスッとペーパーナイフが壁に突き刺さった。
「遅刻だよ、フレッド」
未だ昨日の不機嫌さを残すロイクに苦笑を漏らし、フレデリックは壁に刺さった小さなナイフを引き抜いた。
「昨日、キミがポッキリと折ってくれたピノキオの曲がった鼻を、修復していたら予想以上に時間がかかってしまってね」
「それが理由?」
「まあ、キミの機嫌は修復できそうにないけどね」
フレデリックの手から放物線を描いて放り投げられたペーパーナイフを、ロイクは視線も向けずに受け取った。
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