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すっと音もなく立ち上がったロイクは、執務机を回り込んでフレデリックの目の前へと立った。自身と同じ、金色の髪をさらりと指先で掬い上げる。
「君が、あのオモチャをもう要らないというのなら、僕がもらってあげようか?」
「随分とガブを買ってるようじゃないか」
「そうでなきゃ、僕が本気で殺気なんか向けるはずがないだろう? その場で気絶しなかっただけでも賞賛に値するね」
「キミがそこまで他人を褒めるなんて、珍しいこともあるんだね」
「僕はいつだって、君の事も褒めてるつもりなんだけどな」
どうして伝わらないのかと嘆くロイクに、フレデリックはふっと笑ってみせる。
「キミの言葉が、羽のように軽いからだよ」
「いい加減、少しくらい真面目に受け止めてくれてもバチは当たらないよ」
「なら、キミが嘘吐きじゃないと、一年で証明してもらおうかな」
「良いだろう。退屈な船上での生活も、これで少しは愉しめそうだしね」
フレデリックには、ロイクが何をしようとしているのかまったく予想がつかなかった。けれども、ロイクが自らガブリエルを育てるというのなら、それはそれで楽しみでもある。
ロイクの執務室を後にしたフレデリックは、どこか浮かれたような足どりで通路を進んでいった。
◇ ◇ ◇
一方、足取りの軽いフレデリックとは対照的に、自身の執務室で頭を抱えていたのはハーヴィーである。アレハンドロが自室のナイフで自らの脚を切りつけたというのだ。
――いったい何を考えている。
十中八九、目当てはロランなのだろう。だが、あんなことがあった以上、ロランが治療にあたる可能性は皆無だ。この船には、相応の人数の医師が常駐している。
すでにメディカルセンターへと運ばれたアレハンドロには、マネージャーをつけてある。メディカルセンターへも、ハーヴィー自ら連絡を入れ、ロラン以外の人間をあてがうよう指示を出した。あとは、フレデリックとロイクに報告を残すのみだった。
セキュリティーへの回線は、即座に繋がった。
「ハーヴィーだ。そちらの統括に繋いでもらいたい」
『ただいまお繋ぎします!』
如何な船での勤務とはいえど、スタッフ全員が組織のメンバーであるセキュリティー部門では、ハーヴィーの名を知らない者はいなかった。慌てて返事をするスタッフに苦笑を漏らす間もなく、回線はロイクへと回された。
『やあハーヴィー。君から連絡してくれるなんて、何か良いことでもあったのかな?』
「残念だがその逆だ。アレハンドロが自室で自分の脚を刺した」
『おやおや……』
「至急、セキュリティースタッフをメディカルセンターへ向かわせて欲しい。こちらからは、マネージャーのリチャードが付き添っている。医療班のスタッフには、ロランをあてないよう連絡はしてあるが、このままでは何をしでかすか……」
『そうだね。こちらはすぐに手配するよ。ああ、因みにフレッドは今ごろブリッジに向かっていると思うけれど、すぐには捕まらないだろうから端末の方に連絡してあげてくれる?』
「助かる。ではまた」
切断した回線の向こうでロイクが残念そうな顔をしていることなど知る由もなく、ハーヴィーはフレデリックのプライベートナンバーへと発信した。
『やあハーヴィー。何か用かな?』
「アレハンドロがメディカルセンターへ運ばれた。対応を頼めるか」
『おやおや……』
ロイクとまったく同じ台詞を吐いたフレデリックが、だが内心で舌打ちを響かせたことは言うまでもない。
『まったく、我慢の利かない子だねぇ』
自身の我儘を棚に上げて宣ったフレデリックは、すぐにメディカルセンターへと向かうと言って電話を切ってしまった。
沈黙した端末を見遣るハーヴィーの心に、一抹の不安が過る。プライドの高いフレデリックが、問題を起こすアレハンドロをそのままにしておくとは思えなかった。
フレデリックの素性を知る前であれば、そんな危機感は抱かなかっただろう。だが今は、ハーヴィー自身も同じ立場にある。
マフィアなどという人種が他人を”処分“するのに、たいした理由は要らない。
執務室を出たハーヴィーは、メディカルセンターへと足を向けた。
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