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ふたり分の荷重を受け止めた寝台が、抗議するかのように軋みをあげる。ロイクの逞しい腕に抱かれたまま、ハーヴィーは恋人の胸へと頬を寄せた。
「なあ、ロイ」
「うん?」
「いったい何時、あなたはアレハンドロに……?」
「君とフレッドが、ブルーノと話している時に、少しね」
もはや隠すつもりもないのだろう。ロイクはあっさりと答えた。
「たったそれだけの時間で……?」
ハーヴィーがロイクから目を逸らせた時間は、数秒ほどしかなかったはずだ。ブルーノと言葉を交わしたのもほんの二、三言程度で、室内には看護師も居た。フレデリックだけは別として、たったそれだけの時間で、ロイクは三人の意識から消えたというのか。
「たとえ短い時間でも、他に気を取られている人間の意識から逃れることはそう難しい事じゃない」
「あなたを監視しようなどと思った私が馬鹿だったよ」
「どうかな。あの時、君がもし物理的に僕を捕まえていたなら、僕は何もできなかった」
「物理的?」
「さすがに、躰の一部に触れられていたら僕も消えられない」
「っ……今さら…」
今さらそんな事を聞かされても無意味だと、そうハーヴィーが言えば、ロイクは大袈裟に肩を竦めてみせた。
「そうかな。これで僕は、今後君の目の前でおいたをする事は出来なくなった。君にとって、これ以上のアドバンテージはないと思うけど?」
「最初から手を出さないという選択肢はないのか?」
「ないね。僕は、目障りなものをいつまでも放置しておけるほど悠長な性格をしていない。それは、君も知っているだろう?」
「……少しは反省しろ。あなたと違って、私は人が死ねば怯えもするし、心も痛む」
「まるで僕には痛みがないと言ってるようだ」
「あんなに簡単に、あなたが人を殺せるとは思っていなかった……」
「それが、君の本心?」
「あなたの言う通り、予想はしていたんだ。だが、いざ目の前でことが起きてみれば、とても冷静ではいられなかった。あなたと、同じ世界に立ったつもりでいたのに、な」
自嘲にも似た笑みがハーヴィーの口許を零れ落ちる。
「それでも、君は僕の隣に居てくれる?」
「そう、言ったはずだ」
「後悔しないかい?」
「しない。……と、言い切れるだけの自信はないな」
昨夜、ハーヴィーはアレハンドロの夢を見た。夢の中、普段と変わらぬ姿で一緒に仕事をしていた彼は、今はもうこの世界のどこにも居ない。そう思うと、言い表しようのない気持ちが込み上げてくるのも事実だ。
「私は、あなたほど強くはなれないよ、ロイ。けれども、不思議とあなたから離れる気にはならなかった」
矛盾していると、そう思う。だが、それが紛れもないハーヴィーの本心だった。
「それに、他でもないあなたが攻略法を明かしたからには、同じような事はもう起こらないだろうしな」
「それは、どうかな」
一向に素直にならないロイクの髪を、ハーヴィーは指先でくるくると弄んだ。へそを曲げたロイクの機嫌を直すのは、一苦労である。
「いい加減、拗ねるのはやめておけ。さすがに、今回ばかりは私もあまり余裕がない」
「ギブアップ?」
「させてくれるんだろう?」
「代わりに、今夜は僕の腕の中で眠ってくれる?」
「イエスと言いたいところだが、今夜は仕事がある」
ハーヴィーが告げれば、今度こそロイクははっきりと不機嫌そうな顔を見せた。
「仲直りの時間もないなんて……」
「仕事だ。我慢しろ」
「この船のゲストが居なければ、君の仕事はなくなるよ」
「またあなたは馬鹿なことを……そんな事、出来るはずが……」
出来るはずがない。そう言おうとして、ハーヴィーは口を閉じた。やりかねない。
「頼むから馬鹿な真似はやめてくれ。処女航海くらいは、一人の行方不明者もなく帰港したい」
表立ってニュースになる事はないが、船旅で行方不明者が出るのは正直日常茶飯事のことである。海にでも落ちたのか、それとも何らかのトラブルに巻き込まれて投げ捨てられたのか、理由は皆目見当もつかないが。だが、招待客のみの今回のクルーズだけは、話が別だ。
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