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フレデリックを船室へと押し戻し、辰巳もまた部屋へと戻る。いくら遠目とはいえ白い制服は良く目立つ。目敏いカメラマンにでも見つかろうものなら、騒ぎになる事は必至である。
辰巳は、そんなものは御免だった。
真新しい制服に包まれた肩を、フレデリックに劣らず逞しい腕が何気ない仕草で抱き寄せる。
「心配しなくっても、その制服がお前には世界一似合ってるよ」
低く囁いた唇が、一瞬にして朱を帯びた耳に口付ける。
「ッ……辰巳」
「オラ、キャプテンが遅刻なんて洒落になんねぇだろ。とっとと行ってこい」
些か乱暴な手つきで廊下へと続くドアの前まで押し戻されたフレデリックは、名残惜しげに辰巳を振り返った。
「照れてるね?」
「うるせぇよ」
「いってらっしゃいのキスが欲しい、辰巳」
そう言って、ちゃっかりと目蓋を閉じたフレデリックの唇は、だがしかし色気もなくガブリと噛まれる事となった。
「痛いっ」
「とっとと行けっつってんだろぅが」
反論する間もなく今度は額をビシリと弾かれて、フレデリックは唇を尖らせた。
「どうしてキミはそう乱暴なのかな!」
「遅刻しそうな嫁を気遣ってやってんだろぅが、感謝しろよ」
フレデリックの不満など意にも介さず嘯くように辰巳が言うのと同時に、小さな電子音が白い制服の胸元で時間を知らせる。フレデリックの手には些か小さく見える電子端末の上を節の高い指が滑らかに滑り、電子音は途切れた。
「おい」
短い辰巳の声に、端末を胸元に戻しながら顔を上げたフレデリックの唇へと幾分か乾いたそれが重なる。すぐ間近にある闇色の瞳を覗き込んで、フレデリックは嬉しそうにふわりと微笑んだ。
無骨な手がくしゃりと撫でた髪を片手で掻き上げ整える。少しだけ縒れた制服を直し、ドアの横に設えられた姿見を確認するフレデリックの姿を、辰巳が穏やかな顔で眺めていた。
「いってきます」
「おぅ、行ってこい」
◇ ◇ ◇
フレデリックが出て行ったのと入れ替わるように、辰巳は一人のフランス人を部屋へ迎えていた。
辰巳やフレデリックに比べれば些か線は細いながらも百八十四センチの長身に引き締まった体躯をもつ男の名は、クリストファー・ヴァンサン。肩まである赤茶色の髪はゆるくウェーブを描き、その顔立ちは女性と見紛うほどに美しく整っている。
「お前、仕事は良いのかよ?」
「俺の仕事は明後日からだ」
「はぁん?」
フレデリックの義弟でもあり、この船のカジノディーラーでもあるクリストファーは、持ち込んだ紙袋を手にバルコニーへと足を向けた。
「良い眺めだ」
思った通りだと言わんばかりの顔で口角をあげるクリストファーへと肩を竦め、辰巳もまたバルコニーへと出る。
「ビールで良かったか」
「ああ」
クリストファーの手からビールを受け取り、辰巳はさっそく瓶を開けた。そう、二人はこれから始まる出航セレモニーをバルコニーから眺めるつもりでいるのだ。
互いに手にした瓶が軽く触れあい、涼やかな音を奏でる。飲み物を片手に手摺に凭れかかりながら眺め降ろすサウサンプトンの港は、相変わらずの人で溢れていた。
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