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わざとらしくとぼけてみせるクリストファーへと打ち込んだ辰巳の肘は、だがあっけなく躱された。それどころか肘を捕らえられ、バルコニーへと引き倒される。反動で取り落としそうになった辰巳のビール瓶までも掬い上げられてしまえば反撃する気にもならない。
「危ないだろう?」
ニヤリと男前な笑みに見下ろされ、辰巳はぎこちなく首を振った。これだからこの男は質が悪い。
辰巳は、すぐさま解放された。
「お前な……」
「手合わせでもして欲しいのかと思ってな」
再びとぼけるクリストファーを横目で睨み、辰巳は無言でその手からビール瓶を掻っ攫った。一気に瓶を煽れば喉を鳴らすような笑い声が聞こえてくる。
「自分から手を出したくせに拗ねるなよ」
「別に拗ねちゃいねぇよ」
「そうか?」
気にしたふうでもなく言いながら差し出されるクリストファーの手を辰巳は握った。細い躰のどこにそんな力があるのかと思うほど、クリストファーは難なく辰巳の体躯を引きあげた。
戻した視線の先、セレモニーはクルーの紹介が終わり、いつの間にかプレスからの質問タイムへと移っている。その殆どはキャプテンであるフレデリックへと向けられたものだった。似たような質問にも厭う様子なく穏やかな笑みを浮かべて応える様子にフレデリックの仮面のぶ厚さを辰巳は再認識する。
やがてセレモニーの閉幕が宣言され、ステージ上のクルーたちは笑みを絶やさぬまま船へと続くブルーの絨毯を進んだ。
通常であればターミナルから直接乗船するところを、わざわざ外付けのタラップが設置されているのは、見送る人々へのファンサービスなのだろう。フレデリックを最後尾に、ゆったりとした足取りでクルーたちが時折り後ろを振り向きながらタラップを上がる姿が見える。
タラップが外された後も人波がひく気配はなく、当然、大多数が港を出るクイーン・オブ・ザ・シーズⅡを見送るつもりのようだ。
一度船内へと消えたフレデリックらクルーたちが、前方のデッキに再び姿を現したことを、辰巳とクリストファーは突如沸き上がった歓声によって知った。クルーたちがいるであろうデッキへと向かって手や帽子を振る人々の熱気が、バルコニーまで伝わってくるような気さえする。
「すげぇな」
「お前も手を振ってやったらどうだ?」
「ああ? 誰にだよ」
「見送る連中にさ」
肩を竦めながら器用に顎で示され手摺から僅かに身を乗り出した辰巳の視線の先には、同じようにバルコニーへと出た客が港の人々へと手を振る姿があった。
辰巳の視界の端に、デッキの手摺から白い制服が大きく身を乗り出す姿が飛び込んでくる。次いで慌てたように幾人かの腕が伸びて金色の頭は引っ込んだ。桟橋を埋め尽くした人々の笑い声がバルコニーまで聞こえてくる。
「何やってんだあいつは……」
「ははっ、フレッドのファンサービスだろ。今日は祭りだからな」
可笑しそうに笑うクリストファーが一度部屋へと引き返したと思えば、僅かな時間をおいて両手にブーケを持って現れた。怪訝な顔をする辰巳の前にひとつを差し出す。
「お前のだ」
「あん?」
「下を見てみろよ」
言われて再び下を覗けば、確かに他の客も手に持ったブーケを振っている姿が見えた。客の他にも、手の空いているスタッフなのだろう、あらゆるデッキというデッキから、様々なスタッフやクルーたちの、制服を纏った腕も見える。と、その時、ステージのある会場からカウントダウンが聞こえて辰巳は状況を把握した。
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