メロディーに誘われて

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   彼女が奏でるメロディーに合わせながら大股で近づいていくと、彼女は驚いたように足を止めて振り返った。二十歳前後だろうか。 (うぉ、想像してた以上に可愛いな……)  思わず見とれていると、彼女が怪訝な表情を浮かべた。 (あ、やばい。変質者だと思われてるのかも) 「えっと、大丈夫! 怪しい者じゃないから!」  俺の言葉を聞いた彼女は、眉を寄せたまま小首を傾げた。 (あー、「怪しい者じゃない」なんて言う奴は一番怪しいだろ……!)  どうするか……、と考えあぐねて、本当のことを伝えるのが最善だと思った。 「怖がらせてごめん! でも、君のメロディーに惹かれて来ただけだから。この間隔以上は近づかないって約束する! だから、さっきの曲の続きを聴かせてほしい。それと……、もうひとつだけ、わがままを言うと君と連弾しても良いかな?」  空を見上げながら少し考える仕草をした彼女は、声を出さずに小さくうなずくと、後ろ向きに数歩ステップを踏んでから、また前を向いて進み始めた。 (声が出せない? 耳は聞こえてるようだけど……) 「あ、やばい! 見失う!」  音楽家の中でも、ストレスや病から失聴や失声は珍しくはない。 そんなことを考えていると、どんどん間隔が離されてしまった。 慌てて彼女を追いかけながら、同じメロディーを奏でる。不規則なステップを踏む彼女に合わせるのは骨が折れた。 しかし、超絶技巧と呼ばれる難曲を弾きこなせた時よりも心が躍る。 (あ、道が途切れる……)  次の十字路が見えると、そこで鍵盤が途切れていることに気づいた。  そして、鍵盤の上を指で滑らせて弾くグリッサンドのように走りきった彼女は、両手を後ろで組んでピョンッと振り向いた。  目が合うと、可愛らしく満面の笑みを浮かべたあと、十字路の角を曲がって走り去ってしまった。 「ま、待って!!」  引きこもりで、運動不足の体を恨む。 鍵盤になった道をようやく抜けた時には、彼女の姿はもうどこにも無かった。 そして、振り返ると鍵盤も無くなり、どこにでもあるようなアスファルトの道路に姿を変えていた。 いや、これが本来の姿なのだろう。  しかし――、不思議な体験だった。 「狐に化かされる」など、田舎の祖母から迷信のような話をたくさん聞いて育ったためか、俺は人よりも不思議なものを信じられる(たち)だ。 こんなことも時にはあるのではないか、と両手で頬を叩きながら納得する。 (あ! こんなところで浸っている場合じゃない。早く帰って楽譜に!)  早歩き、小走り、全速力とスピードを上げながら自宅に戻ると、グランドピアノが置かれている部屋に飛び込んだ。  そして、心の中で鳴り響く軽やかな音色が消えてしまわないうちに、まっさらな五線譜に彼女と奏でたメロディーを書きなぐった。 こんなに乱暴に書かれた楽譜は、おそらく俺以外は読めないだろう。  最後の一音を書き終えると、汗ばんだ手で鉛筆を置いた。 そして、深呼吸をしてから鍵盤の上で指を踊らせる。彼女と一緒にステップを踏んだ感覚を心に描きながら。 (できた……! この曲だ!!)  弾き終わると鼓動は忙しなく、息も切れて汗だくになっていた。  しかし不思議なことに、なぜか自分が弾くと、軽やかというよりもずいぶんと情熱的な曲になった。 メロディーラインは間違いなく再現できているはずなのに、どうしてだろうと考え、ひとつの答えが浮かんだ。 (あぁ、そうか。俺はまだ彼女を追いかけたいのか)  指が……いや、全身が震えた。  何とも言えない感情が体の中で暴れている。  思わず楽譜を抱きしめて下を向くと、一粒二粒と涙がこぼれ、しだいに止まらなくなった。  そういえば曲が作れないと気づいた時、荒れて酒に逃げたりはしたが、涙が出たことは一度もなかった。  しかし、今は止めたくても止まらない。  楽譜だけは濡れないように、しっかりと腕の中に抱き込んだ。  また彼女に会いたい。 できることならば、こんなふうに彼女を強く抱きしめてみたい。 そんな思いで激しく心を揺さぶられて、心臓が焼かれるように痛い。 (恋って、こんなに厄介なのか……)  二十七歳にもなって、しかも、おそらく人ではないだろう相手が初恋の人だなんて、冷静になると笑ってしまう。 しかし、こればかりはどうすることもできないだろうと、初めての感情ながらも理解できる。  あの十字路に行けば、また会える日が来るのだろうか。 彼女の笑顔と後ろ姿に想いをはせながら、会いたい、次は声を聴いてみたいと強く願った。    そして、予感がする。  彼女との出会いでスランプは抜け出せるだろうが、今度は甘いメロディーに心を侵食されてしまうかもしれない、と。  しかし、それはとても心地よく、とろけるような悩みになるだろう。  きっと俺はこれから、名前も声も知らない、人かどうかすら分からない彼女へ向けたラブソングをいくつも紡いでいくのだろう。  その曲を、いつか彼女は聴いてくれるだろうか――。
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