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少し外の空気を吸いに行こうと、コンビニに行くような格好でサンダルに足を入れる。そして、重厚な門扉を開けて私道に出ると、街の様子がおかしいことに気づいた。
周囲がやけに静かだ。
平日の昼過ぎは、買い物帰りに世間話をする主婦の声や、公園や学校から聞こえる子どもがはしゃぐ声で溢れている。しかし、今日はそれが聴こえない。
まるで、街から音が消えてしまったようだ。
一瞬、自分の聴力の不調かと思い、背筋が寒くなった。
しかし、どこからか若そうな女性の鼻歌と、拙くピアノを弾いているような音が聴こえ、強張った肩から力が抜けた。
(……少し音痴だな)
ふだんなら、ずれた音は不快に感じる。しかし、思わず口元が緩んだ。
世界に音があることにホッとしたのだ。
歌にもピアノの音にも、あれほどうんざりしていたのに。
(どこから聴こえてくるんだ?)
耳をすますと、わりと近いように感じる。
(――あの角のあたりか)
少し先に小さな十字路がある。
道が交差する場所に立って左右に視線を向けると、右側の道だけ異様な世界が広がっていた。
「何だこれ!?」
思わず、大きな声が出た。
道いっぱいに白の横線と、それより少し短い黒色の横線が交互に塗られている。まるで、ずっと遠くまでピアノの鍵盤が続いているように見えた。
いたずらにしては、手が込みすぎているのではないだろうか。十字路から見た左側の道は、普通の灰色のアスファルトだ。
そして、もう一度右側の道に視線を戻すと、やはりおかしな道が続いている。目の錯覚ではない。
呆然と立つすくんでいると突然、スキップやケンケンパと子どもが遊ぶように、楽しげに跳ねる女性が蜃気楼のように現れた。
ウェーブがかった腰まである長い黒髪と、ノースリーブの白いワンピースをふわふわと揺らして、リズミカルに先へ先へと進んでいく。
少し音程がずれた鼻歌を口ずさみながら。
(さっき聴こえてきた声は、この女性の――)
そして、どのような仕組みになっているのか、彼女が踏んだ場所はピアノの音が鳴っている。
彼女が足で奏でているのは、聞いたことのない不思議なメロディーだった。
(童謡でもクラシックでもジャズでもないな……)
どうやら彼女が即興で奏でているようだ。音はずれているが、なぜか心地の良いメロディーだ。
不可思議な道に思い切って踏み入ると、「ドー」と低い音が鳴った。自分にも音が出せるらしい。もう一歩進むと、「レー」と鳴る。
久しく感じていなかった、くすぐられるようなイタズラ心に似た感覚がじわじわと湧いてくる。
(彼女が奏でている曲をアレンジ……いや、連弾してみたい!)
俺は無意識に口角を上げ、彼女を追いかけるようにステップを踏み始めた。
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