「追いかけっこ」の終わり(あるいは痕跡の消失に関する論考)

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「追いかけっこ」の終わり(あるいは痕跡の消失に関する論考)

そのプロフィールに、もはや僕の知っているものは一つもなかった。 よく盛れていた笑顔の写真とか、ホーム画面の誰かと旅行に行った時に撮ったであろう仲の良さを示すセピア色の集合写真とか、あとは、仲間内で使っていたあだ名さえも。 それは彼女が社会人になったからかもしれないし、ただ単に気が変わっただけかもしれない。 でも、それでも、久しぶりに見たプロフィール画像に映っていた色違いのうさぎのぬいぐるみ二匹は、僕をひどく動揺させた。 いや、動揺する理由などないのだ。彼女が幸せな生活を送っていることは喜ばしいはずだし、僕と何かあったのだって随分と昔の話なのだから、新しい相手がいるのだって別段不思議な話ではない。 それでも、である。 僕はひどいくらい絶望した、と思う。心の底からそんな事実は認めたくないけれど、それでもあのジェットコースターが降っていく時の腹のような感覚が、本能的に僕の精神が揺り動かされていることを嫌というほど突きつけてきた。 何に絶望しているのだろう。彼女に新しい男ができたことだろうか。いや、それは違う。それはただの原因の一部であって本質ではない。昔の僕ならこの事実すらも否定していただろうが、流石に5、6年の月日の中で僕は自覚させられた。 人間とは、そんなに強いものではない、と。 だからその事実が僕を苦しめているということはどんなにカッコ悪くても認めなければいけない。 だが認めてもなお、それが僕の心を揺らす震源であるとは考えられないのだ。 もっと大きく、もっと深い、もっと本質的な、何か。 そうして鉛のような感情を持って彼女のプロフィールをもう一度覗き込んで、僕は初めてそれが何なのかを理解した。 そうだ、痕跡がないのだ。僕が「知っている」彼女が、もうどこにもいないのだ。 僕が「追いかけていた」彼女が、もうどこにもいないのだ。 僕の知っている彼女は、狭い周囲のとの関係を大切にする人だった。 自分の良く撮れた写真をプロフィールにする人だった。 「付き合っている」という事実を、絶えず周囲に隠して、プロフィールにそんなものを設定する人ではなかった。 それがどうだろう。自らの本名を名前にし、なんの変哲もないぬいぐるみの写真をプロフィールを写真にし、そしてあろうことかそれを誰が見ても「交際」が明らかにしているではないか。 そうして僕は悟るのだ。僕の知っている人は、僕が長年心を奪われ、心を壊され、心を揺り動かされた彼女が、もう、どこにもいないのだと。 それは絶望の絶望、とでも形容するべきなのだろうか。僕は絶望することすら許されていないのだ。なぜならもう彼女は僕の知っている人ではなくて、僕はどこにも僕が恋した彼女の痕跡を見つけることができないから。 テセウスの船、という思考実験がある。完成された船を使い続けて、部品やパーツを壊れるたびに変えて、最終的に元のパーツが100パーセント新しいパーツに入れ替えられた時、それは同じ船として定義することができるのだろうか、というアレである。 僕はそんなものは馬鹿げていると思ってた。同じに決まっているじゃないか、人間だって細胞が3ヶ月で新しいものに入れ替わるのに、僕は僕なんだから、それは「同じ」なのだ。 そう、本気で思っていたのに。 きっと彼女はまだ戸籍上同じ人間に違いない。彼女自身も自分を同一の人間だと思っているのだろう。 でも、もう「違う」のだ。それは細胞の話だけではない。考え方も、気持ちも、全て全て、もう違うのだ。 あの船はもう同じ船ではなかったのだ。同じ形をして、同じ名前を持っていても、きっとテセウスの知っている船ではなかったはずだ。(そして気づかざるおえないのだ。彼女を変えた素敵な人がいたということを。僕らが築いた共依存的な関係ではなく、優しく包み込み、彼女の心をどこまでも優しく、綺麗なものにした人がいた、いや、今も彼女の隣にいるのだ。この絶望はしかしこの本質的な絶望の部分に過ぎない)。 それの何が絶望的なのだろうか。きっとそれは心を奪われていた、恋愛的な意味だけでなく、夢や無意識の考え事でいつでも立ち現れてきた彼女が、もはやどこにもいない、つまり僕の絶望の根底にいた彼女のイメージはもはやどこにもないということだ。 それは絶望の絶望だ、もう絶望することすらできないのだ、彼女はどこにもいないのだから。 痕跡の消失、それは絶望を僕から奪い去り、心を奪われることすら不可能にする大いなる絶望。 追いかけていると錯覚していた背中が、突然その姿を消したのだ。 そうなんだ、僕はもう彼女をどのような形であれ「追いかける」ことができないのだ。 僕はこの数年彼女について考えなかったことはなかった。もちろんずっと考えていたわけではないし、僕自身も彼女を忘れて幸せな生活を送っていた時もあった。それでもどこかのタイミングで夢や無意識の考え事でふとした瞬間に現れては僕の精神を揺り動かすのだ。そうしてその度に彼女のとの日々を思い出し、僕は絶望をしていたのだ。 僕はきっと、そんな彼女のイメージを追いかけて、追いつけないことに絶望していたに違いない。 それはまるでどんなに走っても亀に追いつけないあの哀れなアキレスのようなのだろう。 もう、そんな絶望は不可能なのだが。 もう、その追いかけていた亀は宙に離散して消えていったのだから。 結局何が言いたいのだろう。私はどうしたいのだろう。いや、どうすることもできないこの状況をどう受容したら良いのだろうか。僕の知っている彼女はいないし、それを直接彼女に言うなんて言うのは不可能である。もう僕は数年連絡をとっていないし、最後に会話をした時僕は彼女をひどく傷つけたものだから、関係の修復さえ不可能である。夢の中に現れるたびに「死ねばいいのに」とか「まだ生きていたんだ」とか言うのだから、現実の彼女がどれほど僕を憎く思いっていたのかがわかるだろう。もちろん今の彼女にとって僕なんか記憶にすら登場しない、想起することすらない、道端に捨ててある吸い殻と同じ価値しかないのだろう。 しかし吸い殻の方は違うのだ。吸い殻にとって、彼女は幸せな思い出であり、忘れられない記憶であり、忘れたい悲しきイメージであり、僕を夢の中で今でも苦しめ続ける悪魔であり、そして僕自身の「恋愛」の根幹をなす女神なのだ。 そしてもうその女神はどこにも存在しないのだ。それは狂人の妄想であり、新興宗教の教祖であり、そしてLSD薬中が壁にみる幻覚なのだ。狂人が妄想を自覚し、教祖が自らを人間と宣言し、そして薬の効果が切れた状態なのだ。 僕はもうだめだ。もうダメなのだ。この世界の真実だとされていたものが、今音を立てて崩れていくのだ。 追いかけることこそが「僕」と言う存在を確立していたはずなのに、その行為自体が不可能にさせられてしまったのだ。 僕は、もう「僕」を確立させられないのだ。 ならば僕もこの世から消えた方が良いだろうか?思い出すことも夢に見ることもなくなるならば、僕は生きている必要があるのだろうか? しかし残念ながら僕は生きている。僕は飯を食い、友人たちと酒を飲み、毎日を悠々自適に生きている。 僕は、絶望の絶望をしてもなお、結局生きているのだ。 別に死にたいとは思っていないのだ。それだけの話である。 そして自覚せざるおえないのだ。僕は変わらなかった。ずっと引きずって、無意識に刻印されたイメージは変容しなかった。でもそれが、未来永劫変わらないと言う保証にはならないのだ。 どこかの哲学者の言葉を借りるなら、全ては「別様になりうる」のだ。 そうして堂々巡りのように気付かされる。そうだ、変わらないと思っていた彼女だってもう変わってしまったのに、どうして僕だけが永遠に変わらないと言えるのだろうか。数年間夢や考え事に出てくるからといって、どうしてこれからも出てくると言えるのだろうか。 それはただの強がりなのかもしれない。結局僕の負け惜しみなのかもしれない。 それでも、である。 彼女が素敵な人に巡り合って変わったように、結局変化なんてものは自分自身でどうこうできるものではないのだ。 昔、イギリスで一人暮らしをしていた時なら、僕は一週間の記憶をなくし、部屋にこもっていたかもしれない。 でも、今の僕の周りには数え切れないほどの人々がいる。そして僕はそうした人たちの関わりのせいで(おかげで)、彼女について絶望する回数が少なくなっているように感じるのだ。 もちろん、これから僕がまた一人になったら、絶望することが増えるのかもしれない。 だが、それでも、僕は彼女が変わったように、僕自身も変わっていけたらと思う。 どのように変わるかなんて、そんなものは神様にもわからないはずだ。 でも、もし別様になりうることだけが僕らを僕らたらしめるのだとしたら。 あのテセウスの船を「テセウスの船」たらしめるものが、名前ではなくその変化それ自体だとしたら。 ならば…僕は… 彼女のプロフィールを閉じ、僕は友人らにメッセージを送る。今日の予定について、くだらないジョークについて、課題について… 全ては、別様になりうるのだから… 痕跡の消失。それは「忘れること」ではなく、「変わっていくこと」の存在証明なのだ。 僕のたくさんの痕跡もまた消失していく。そうして消失した先に今の僕があるのだ。 でもそれは失われることを意味しない。忘れているだけで、それは僕を僕たらしめているのだ。 捨ててしまった、無くしてしまった、置き換えてしまった、全ての僕の痕跡に敬意を表して。 もう追いつくことはできないけど、でも、それでもあの追いかけていた思い出が、いつの日かその痕跡すらも消失して、未来の僕を作り上げてくれるのだとしたら。 そうだ「追いかけっこ」の終わり、それは僕自身の終わりではないのだ。終わって、そして消失していくその先に終わりがあり、そして新しい「始まり」があるのだ。 だから少年少女よ、どうか絶望に心を奪われないでくれたまえ。 絶望は酷いものだ。心を砕かれ、生きる意味なんてどこにもないように思われる、あの暗くてひとりぼっちの、誰にも共感なんてされない悲しき地平線。 それでも、である。いつかその思い出も消失してその痕跡すら消えた時、その地平線から初めて太陽が昇るのだ。 それは忘れることではない、いや、むしろ君だけの力で記憶を消すなんてことはできない。 でも胸が張り裂けるようなあの気持ちの後でさえ、僕らは変化をしていくのだから。 「別様になりうること」だけが、この世界の真実なのだから。 生きて、その痕跡が消失して、もう思い出すこともできなくなった時、君たちは初めて自分自身を愛することができるはずなのだから。 「追いかけっこ」が終わって、そうして初めて君たちは変化し始めるのだから。 いつかこの絶望が痕跡となり、それが消えていくことを祝して。 僕に、彼女に、そして全ての少年少女らに、幸あれ。
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