四季の奏(かなで)

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 桜舞う風の中を、僕は走っていた。  桃色の花弁(かべん)は、気付けば蝉時雨(せみしぐれ)()まれ、燃ゆる葉に、渦巻く雪へと変わっていく。  あの音が聴きたい―― 「……奏斗(かなと)!」  名を呼ばれ、僕の意識は現実に引き戻された。ヴァイオリンの旋律は途切れ、腰に手を置いた母が横に立っている。 「やる気ないなら、部屋へ戻りなさい」  思うように演奏できない僕に、母はご立腹だ。そんなこと言うのなら、自分で弾けばいいのに。  やり場のない想いを抱えたまま、僕は自室へ戻った。  ベッドに転がり、天井に手を伸ばす。  高校生になった僕の指は長く、周囲の子と違って弓タコがある。  あの時、ヴァイオリンを弾きたいなんて言わなければ良かった――  * * *  あの音に出会ったのは、僕がまだ小学生の頃。  風に乗って聴こえてきた音に誘われ、僕はその公園に足を踏み入れた。  夕暮れを背に、その人はヴァイオリンを演奏していた。  顔は見えなかったけれど、長い手が、背中が、全身が――優しく、時には激しく、音を紡いでいた。  僕は一瞬で、その音に恋をした。  春も夏も秋も――冬も。  僕はその音が聴きたくて、一人で公園に足を運んだ。  悲しい時は僕を励まし、嬉しい時は一緒に喜んでくれた。  けれど、あの日――その音は止んでいた。  不安になりながらも、公園を覗き見た。  僕はほっとした。いつものように、その人はヴァイオリンを携え、立っていた。  しかしどんなに待っても、あの音は聴こえてこない。  風が遊具を揺らし、軋んだ音を奏でる。 自分よりも大きな背中が少し震えているように見え、僕は初めて声をかけた。 「ねぇ、どうしたの?」  背中がぴくりと動き、弾かれたように振り返った。  初めて見た顔は、涙に濡れていた――    それから、音は途切れることなく季節を繋いでいったけれど、ある時、本当に聴こえなくなってしまった。そしてその日、僕は母にお願いした。ヴァイオリンを習いたい、と。  弓を引く度に弦が震え、音が溢れる。あの音に、ただ近づきたかった。  演奏を止め、ため息をつく。  あの音は、もう夢の中でしか聴くことができない。しかしそれすらも、時と共に薄らいでいく。  音の代わりに涙が溢れたその時。 「ねぇ、どうしたの?」  幼い少年の声に、僕は弾かれたように振り返った。 「もっと聴かせて」  窓から少年が顔を覗かせ、こちらを見ている。  期待に満ちたその瞳が、まっすぐに僕の心を射貫いた。  ああ、あの日。泣いていたあの人は、戸惑った後、何て答えただろうか。 「……聴いてくれる?」  僕が静かに言うと、少年は嬉しそうに頷いた。  ()びついた季節が、また、動き出す――    ~おしまい~
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