0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
桜舞う風の中を、僕は走っていた。
桃色の花弁は、気付けば蝉時雨に呑まれ、燃ゆる葉に、渦巻く雪へと変わっていく。
あの音が聴きたい――
「……奏斗!」
名を呼ばれ、僕の意識は現実に引き戻された。ヴァイオリンの旋律は途切れ、腰に手を置いた母が横に立っている。
「やる気ないなら、部屋へ戻りなさい」
思うように演奏できない僕に、母はご立腹だ。そんなこと言うのなら、自分で弾けばいいのに。
やり場のない想いを抱えたまま、僕は自室へ戻った。
ベッドに転がり、天井に手を伸ばす。
高校生になった僕の指は長く、周囲の子と違って弓タコがある。
あの時、ヴァイオリンを弾きたいなんて言わなければ良かった――
* * *
あの音に出会ったのは、僕がまだ小学生の頃。
風に乗って聴こえてきた音に誘われ、僕はその公園に足を踏み入れた。
夕暮れを背に、その人はヴァイオリンを演奏していた。
顔は見えなかったけれど、長い手が、背中が、全身が――優しく、時には激しく、音を紡いでいた。
僕は一瞬で、その音に恋をした。
春も夏も秋も――冬も。
僕はその音が聴きたくて、一人で公園に足を運んだ。
悲しい時は僕を励まし、嬉しい時は一緒に喜んでくれた。
けれど、あの日――その音は止んでいた。
不安になりながらも、公園を覗き見た。
僕はほっとした。いつものように、その人はヴァイオリンを携え、立っていた。
しかしどんなに待っても、あの音は聴こえてこない。
風が遊具を揺らし、軋んだ音を奏でる。
自分よりも大きな背中が少し震えているように見え、僕は初めて声をかけた。
「ねぇ、どうしたの?」
背中がぴくりと動き、弾かれたように振り返った。
初めて見た顔は、涙に濡れていた――
それから、音は途切れることなく季節を繋いでいったけれど、ある時、本当に聴こえなくなってしまった。そしてその日、僕は母にお願いした。ヴァイオリンを習いたい、と。
弓を引く度に弦が震え、音が溢れる。あの音に、ただ近づきたかった。
演奏を止め、ため息をつく。
あの音は、もう夢の中でしか聴くことができない。しかしそれすらも、時と共に薄らいでいく。
音の代わりに涙が溢れたその時。
「ねぇ、どうしたの?」
幼い少年の声に、僕は弾かれたように振り返った。
「もっと聴かせて」
窓から少年が顔を覗かせ、こちらを見ている。
期待に満ちたその瞳が、まっすぐに僕の心を射貫いた。
ああ、あの日。泣いていたあの人は、戸惑った後、何て答えただろうか。
「……聴いてくれる?」
僕が静かに言うと、少年は嬉しそうに頷いた。
錆びついた季節が、また、動き出す――
~おしまい~
最初のコメントを投稿しよう!