世界にヒトリのわたし

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なんでもない日常が幸せなのだとよく言うけれど。 いつからだったか、贅沢にもわたしは、そう思えなくなっていた。 片親ということを除けば極々普通の家庭で育ったわたし…いや、今の時代、片親であることすら普通のことなんだろう。 そして「極々普通の」という表現は、正直わたしの家庭には当てはまらない気もする。 様式美を優先してこのフレーズを持ち出したものの、よく考えてみればそのフレーズを使うことに違和感しかない。 きちんと訂正しよう。 わたしの家庭はあまり普通では無い…と、わたしは思う。 少し逃げるような表現になるのは他の家庭を知らないのだから比較のしようがないのだし、「普通」なんて、定義も定かでない単語を断定して使うことが出来ないからだ。許して欲しい。 さらに正確に言えば、「わたしは」普通では無いと思っている自分の家庭で、約23年間暮らしてきた。 23年。こうして振り返れば、だいぶと長いことお世話になってきた。 楽しいこともあれば、つらいこともあった。それはきっとどの家庭でも同じなのだろう。 ただ、そう…あの出来事があってからは家にいることが辛くなった。 その出来事についてここで触れることは出来ない。色々な今のわたしの状況を鑑みると、そんな勇気はない。 けれど、世の中に腐るほど蔓延ったどうしようもないくらいにくだらない出来事だ。触れる価値もない、と言う方が正しいかもしれない。 敢えて少しだけ言うとしたら、親のそんな姿なんて見たくなかった…くらいだろうか。 まぁ…親を責められるほどわたしが真っ当に生きているかと言われると、そうでも無いのだけれど。結局、血は争えない。 ともかく、わたしが14の時にその出来事に遭遇し、そこからわたしの世界は変わってしまった…ように思えたのだった。 実際は何も変わってなどいないだろうに、この世の終わりに匹敵するほどの絶望感を味わったわたしは、何故だろう、自分の存在が分からなくなった。 思春期、という言葉で片付けることも出来るのだろう。というより、きっとそれは間違っていないのだろう。 中学生。多感な時期。自己統一性。 テキスト通りの成長過程。 問題は、23になった今でもあの頃からなにも成長していないことだ。 年齢ばかり重ねて、身体だけが成長していき、中身は14の頃から何も変わっていない。 むしろ少しずつ、少しずつ、酷くなっているようにも思う。 馬鹿なわたしは、幾度となく世界に別れを告げることを考えた。 初めて一番本気で考えたのは20の頃だった。 区切りもいいし、ちょうどいい。それくらいの感覚だった。 けれど実行することは無かった。まだ、死なずに済む理由が残っていたから。わたしの一番大切な人。妹の存在があったから。わたしを頼ってくれる彼女がいるから、わたしはそこに死なない理由を見出した。 次に実行手前までいったのは、22の時だ。 理由は簡単。親との関係性がこれ以上に無いくらい最悪の状況になったから。 呑気に学生生活を送っていたわたしは、家を飛び出すほどの力もない。じゃあ、もう死のっか。とか、馬鹿げた発想。 しかしそれも意図してないところで阻止された。 初めて出会った、顔も知らない人のお陰でわたしは生かされた。その人との関係も楽しいことばかりでは無かったけれど、約1年ほどわたしの寿命を伸ばしてもらった。 その途中で、もうひとり。わたしに幸せをくれた人がいた。死なない理由をくれた人がいた。 名前も顔も知らないところから始まったはずなのに、いつの間にかとても親しい間柄になってくれた人。 わたしはそのふたりのおかげで22からまた1年、無駄に生きながらえたのだ。 わたしの根本的な思考が変わることは無かったけれど。 そして23の冬、不意に家を飛び出してからなんとか生活するまでに至った今、わたしは色々な世界を知った。 家を出てからの行動、仕事を始めて、色んな人と関わって、色んな場所に行った。 どれも新鮮で、どれも楽しかった。ずっとこの生活が続けばいいのに、とさえ思っていた。 けれどその反面で、何かに押し潰されそうな気持ちになった。 新しい世界を知るたびに思った。 世界は広くて、とても綺麗で…綺麗だ。それなのに、そこにわたしが居ることが違和感でしかない。 広くて綺麗な世界を実感するたびに、足元がぐらぐらと揺れる感覚。わたしは何故のうのうとこの世界に存在し続けているのだろう、なんて。 人は誰しもかけがえのない世界にたった一人の人だと言うけれど。 確かにそうなのだろう。誰もわたしの代わりはいないし、誰もあのふたりの代わりは出来ない。 それでも、わたしは、世界に独りだ。 広く綺麗な世界に混ざりこんだ異物のような。ここに居てはいけない存在のような。 何事もない顔をしながら、まるで世界の一部のように過ごしながら…それでも本質はその真逆をいく。 ひとりの生活を始めてから、たまに海を見に行くようになった。 海は好きだ。波の音、光の反射、潮の香り。穏やかな気持ちになれる。 だから、わたしも海になれたらいいのに、と思った。海に還ることができたらいいのに、と。 深く、深く、沈んで、泡になって消えればいいのに、と。 この辺でひとつはっきりと言っておくと、わたしは別に死にたくはない。死ぬのが怖い、という感情も当たり前にある。 ただ、死なない理由が…死ななくて済む理由が見つからないだけなのだ。 何を言ってるのだろう、と多くの人は思うのだろうし、実際わたしも厨二病か何かのセリフを言ってる気分にもなるけれど、実際そう思うのだから仕方がない。 家を出て、自立した妹にもわたしは必要なくなり、生かしてくれたふたりとも生かされてた時の関係は終わり、わたしの死を先延ばしにするものはほとんど消えた。 あるとすれば、福祉の仕事をしてるわたしは利用者さんに対する責任があるからまだ死ねない…くらいだろうか。いや、そんなのわたしが就職する前だって成り立っていた事柄なのだからさして問題はないのだろう。 あぁ、ひとつ。最大の理由があるのだった。幸せをくれた彼と約束していることがある。物語を書く、と約束したのだ。わたしが家を出てから今に至るまでの物語を。 それを書き上げるまでは死ななくて済む。 しかしそれが終わったらいよいよ何も無くなる。 ずっと完成させずにいたい気持ちと、きちんと完成させて読んで欲しい気持ちとが入り交じる。 どんなに長くてもきっと1年もあれば書き上がるだろう。では、その後は…?なにもない。無、だ。 わたしが約束の物語の筆を進めずにこうして他の文章を書いているのは、約束の物語の完結を少し先延ばしにしつつ、今日を生き長らえる理由が欲しいから。 海を見ながら、海に還った後のことを考えつつ、約束の物語の前段とも言えるこの独白のような文章を書いている。 きっといつかこの文章も彼は読むのだろう。読んで…どう思うのだろうか。拙い文章、伝わらない表現、くだらない思考。願わくば、子どものくだらない戯言だと笑って欲しい。 陽が傾いてきて、海がよりいっそう金色にきらきらと輝いてきた。もうこの文章も書き終わる。 わたしは眩しい海を眺めながら心の中で本音を言う。 理由が欲しい。死なない理由…死ななくていい理由が。 例え世界に独りでも、例え世界に歓迎されていなくても、例えわたしがどんなに愚かでも、まだわたしは海を眺めていたい。そこへ還るまでに、もう少し…もうちょっと…もっと…時間が欲しい。 自分のために、自分の意思で、生きることができないわたしに…なにかに、誰かに、どこかに、自分の生を求めてしまうわたしに…なんでもいいから理由をください。 自分のことのくせに他力本願すぎて神様仏様も呆れ返りそうだ、なんて少し笑いが漏れた。 帰り支度をしながらわたしは思う。 今日もまだ理由の通知はくるだろうか。いい加減、飽き飽きしてないだろうか。今日は、スマホは極力見ないようにしている。 馴染みの通知音が鳴ったら、少しだけ幸せな気持ちになってしまう今のわたしを、誰か許してくれるだろうか。 世界に独りだとか、死ぬべきだとかのたまいながら、数時間先の未来を思って生きているわたしは、一体なんなのだろう。 リュックを背負って最後にもう一度、海を見る。 綺麗で穏やかな海はきっとわたしの生死なんて気にも留めず、ただ全てを包み込むだけなのだろう。 一歩前に踏み出せば深く沈むことが出来るこの場所。 わたしは少しだけ身を乗り出して確認してから、くるりと背を向ける。 そして独りごちる。 大丈夫、わたしはまだもう少し生きていられる。 波の音を背に、わたしは帰路に着く。 後ろから吹く風が少しだけ背中を押してくれているようにも思えた…なんてね。
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