土の楽園で会いましょう

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土の楽園で会いましょう

 月の明るい夜だった。春の生ぬるい空気は心地よいのに、今の己の状況を思うと寒気しか感じない。  目隠しを取り去られて最初に見えたのは、すぐ上の兄ふたりの顔と、地面を割るほど大きな木の根。外に出してもらえたことなど数えるほどしかないけれど、それだけでどこに連れてこられたのか分かる。巨樹が生えている場所なんて、この国では一か所しかないからだ。    小国ルインのはずれの地――神秘の森。  かつて竜が愛したとうたわれるその場所は、今では特殊な部族が住まう地だ。立ち入りを禁じられているはずの森の入り口で、ウルドはぐったりと横たわっていた。 「誰が寝ていいと言った?」 「……っ」  恫喝としか言いようのない声とともに、腹を蹴り上げられる。息が止まるほどの衝撃に、視界が一気に白く染まった。呻き声を上げそうになって、ウルドは慌てて歯を食いしばる。声を上げても、余計に殴られるだけだ。    ウルドは兄たちに嫌われていた。六人いる腹違いの兄たちのうち、ウルドに好意的なものはひとりもいない。  兄曰く――ウルドの母がウルドを生んだせいで、彼らの母と兄たちは、父からの愛情を失ったのだという。もっとも、実際のところは知らない。当の父親は、跡継ぎの長男以外には無関心だし、ウルドの母にしたって、自分を手籠めにした父と、望まぬ子であるウルドをまとめて毛嫌いしているからだ。    兎にも角にも、十一を迎えたばかりの小柄なウルドは、鬱憤を溜めこんだ兄たちにとって、絶好の標的だった。  嫌味を言われたり食事に毒を盛られたりするのはまだ良い方で、見えぬところで暴力を振るわれることもしょっちゅうだ。特に五番目と六番目の兄たちは恐ろしい。加減というものを知らない分、ウルドは彼らに殴られるたび、殺されるのではないかと本気で思った。 「蹴っても殴っても、最近はろくに鳴かないな、こいつ」 「痛みが好きなのではないですか? 何しろ王をたぶらかすような、ふしだらな女から生まれた子ですから。感じ方も我々とは違うのかもしれません」 「はっ! 気色悪いやつ」    なんと言われても答えない。どれだけ苦しくても、人形のように反応を殺して耐えることが、もっとも早く解放される方法だとウルドは知っている。 「こいつをここに置いて行ったら、どうなるかな」 「野蛮な部族とはいえ、外の民に迷惑をかけては失礼になりましょう、兄上。何しろこの子は礼儀知らずで生意気ですから」 「歩けなければいいのさ。ナイフを寄越せ」  頭上で交わされる恐ろしい会話に、体が勝手に震えだす。  小柄で体のできあがっていないウルドに対して、兄たちはほとんど大人に近い体格だ。抵抗しようにも勝ち目はないし、そもそも腕を縛られているせいで、殴りかかることさえできやしない。  月の光を遮るように、五番目の兄がウルドの隣にしゃがみ込む。その手には、ウルドの腕ほど長い、鋭利なナイフが握られていた。たまらず恐怖に顔を歪めると、嬉しそうに兄が笑う。 「ぶるぶる震えて、みっともないな。こんなやつと半分でも血が繋がっていると思うと吐き気がする」 「兄上。終わったら私にもやらせてください」 「腹違いとはいえ、弟を傷つけるんだぞ? それも神秘の森の前で。元は女神の箱庭とうたわれる神聖な地だ。女神に嫌われても知らないぞ」 「構いません。兄上がやるなら、私もやりたい」 「お前はなんでも真似をしたがる。困ったやつだなあ」     六番目の兄と話すとき、五番目の兄は少しだけ柔らかい声で話す。逆も同じだ。ウルドには決して向けられない家族の情を感じ取り、ちくりと胸が痛くなった。 (……いいな)    兄たちがやっていることはただの暴力だし、話している内容は、言ってみれば人殺しの算段だ。それでも、罪をともに犯してもいいと思えるほどの絆が羨ましかった。  愛情なんて、ウルドには望むべくもない贅沢だ。  城に戻れば人はいるけれど、ウルドはいつもひとりぼっちだった。敬うふりでおべっかを使ってくれる者はいても、本当の意味の友はいない。期待してくれる家族だって、いやしない。ここでウルドが死んだって、きっと誰も気が付かないだろう。  掲げられたナイフが、月光を映してぎらりときらめく。 「頭でっかち。生意気なウルド。ずっとお前が気に入らなかった!」 「……うううっ!」    刃が振り下ろされると同時に、焼けるような痛みがウルドの腕を貫いた。耐えきれずうめき声を上げれば、興奮したように兄が口角を上げる。嗜虐的な笑みを浮かべた兄たちは、その後も二度、三度と繰り返しウルドの腕と腹を刺し、仕上げとばかりに胸元を切り付けていった。  もはや悲鳴を上げることもできないウルドは、ただ傷口を押さえてうずくまる。   「よかったですね、ウルド」  縄を解かれる感触とともに、そんな冷たい声が降ってくる。 「お勉強しか取り柄のないお前が、得意げに語っていた動物たちにも会えますよ。撫でてもいいし、追いかけっこをしたければ好きになさい。私たちは先に戻っていますから、好きなだけここにいるといいでしょう」  ウルドはさっと青ざめた。血の匂いに惹かれて集まる動物は、おしなべて凶暴だ。こんな状態のウルドが逃げ切れるはずもない。顔色を変えたウルドを見て満足したのか、兄たちはあっさりとウルドに背を向ける。去り行く兄たちの背をぼんやりと眺めながら、死に物狂いでウルドは身を起こした。 (ここから、離れないと)      ここにはウルドが流した血が深く染みこんでいる。凶暴な動物に見つかる前に、早く逃げなければ。   (でも、どこに?)     天を仰げば、生い茂った葉が見える。辺りを見れば、木の根が。耳を済ませれば虫の声が響いていた。初めて訪れた森は、こんな状況でさえなければ美しく見えたことだろう。  城の外に出る機会なんて、今までウルドには与えられてこなかった。今はただ、見慣れぬ自然が恐ろしくてならない。 (どうしよう。どうすれば)    ずり、ずり、と足を引きずりながら、ウルドは闇雲に歩いていく。兄たちを追おうかとも思ったけれど、見つかればきっと今度こそ殺される。身を隠す場所を見つけるしかない。  歩くたびに、刺された腹から血が溢れる感触がした。あちこち痛いし、目の前も掠れている。 (死ぬのかな、俺)    死ぬならせめて、土の上がいいなと思った。憧れていた自然の中で死ねるのならば、それも悪くないのかもしれない。けれど――。 「こわい」     誰か、と喚きたくなって、そんな自分を必死に制した。  本当はウルドだって死にたくなんてない。誰かに助けてほしかった。  頑張ったら褒めてほしい。怪我をしたら心配してほしい。いなくなったら探してほしい。  誰かを愛して、愛されてみたかった。  悪だくみも遊びも何でも一緒にできる、本当の友が欲しかった。  月の光が届かない場所まで、やっとの思いで辿りついたそのときだった。  木の根に足を取られて、ウルドは盛大に蹴つまずく。何の嫌がらせか、転んだ先には、深く大きな穴があった。 (もぐら? うさぎ? どこのどいつだこんなバカみたいな穴を掘ったのは!)     見つけたら追いかけまわしてやりたいと思う程度には腹が立ったけれど、もう立ち上がるだけの元気もない。なんだか眠くなってきて、ウルドはそっと目を閉じた。ひどく雑に掘られた穴は、墓穴にはきっと、ちょうどいい。途切れ途切れの意識の中で、だんだんと痛みが遠ざかっていく。  けれど、ようやく眠れると思った瞬間、やかましい声がウルドの意識を揺り起こした。 「ねえ」 「ねえってば。怪我してるの?」 「おーい。生きてる? 君、何してるのさ。ここ、俺の家なんだけど! 勝手に寝ないでくれる?」 (こんな穴に住むやつがいてたまるか)    人を枝でつつくなだとか、こっちは怪我人なんだぞだとか、突っ込みたいところはたくさんあるのに声が出ない。「うるさい」と、ウルドはやっとの思いでそれだけを返した。 「えええ……、もう、しょうがないなあ」    意識が落ちる寸前、「よいしょ」と間の抜けた声とともに、誰かの体温を感じた気がした。
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