土の楽園で会いましょう

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 ウルドは殿下と呼ばれていた。王族に連なるものは、いつだって戦で矢面に立つ。  来ないのではなく、来られなかったのだとしたら。もうこの世にはいないのだとしたら。    人間は弱く儚い生き物だと知っているのに、なぜ待とうだなんて思ってしまったのだろう。もやもやが胸の中に暗く広がっていく。  日が暮れるころ、サウィンは人の国に足を踏み入れていた。どこもかしこも血の匂いと死の香りが染み付いた、穢れた場所だ。人間の生み出す文化は楽しいが、この血の匂いばかりはどうにかならないものかといつも思う。 (前はここまでひどくなかったと思ったけど)  疲れた顔をした人々が、何かから逃げるように背を丸め、せかせかと道を歩いている。まだ夜になりきっていないというのに子どもの声すら聞こえない。その代わりのように、「国王陛下万歳!」というけたたましい演説の声だけが街に響いていた。 「ねえ」  赤ん坊を抱えた若い女を引き留める。びくりと肩を揺らした女は、怯えと不信を目に宿して「……何か」とか細く答えた。 「戦が起きているの?」 「え……? そりゃ起きてるよ。三年前からずっと。ずっと終わらない」 「なんで?」 「なんでって、そんなこと、あたしたちが知りたい。勝手にはじまって、生活が苦しくなって、みんないなくなって……、なのに、ずっと終わらないんだ」  ぎゅうと強く赤ん坊を抱いて、女はどこかを睨みつけながらそう言った。恨みをぶつける先さえ分からないのだろう。彼女は初対面のサウィンに八つ当たりをするように、ぶつぶつと低い声で嘆き続ける。   「王子様たちが疫病で死んで、王様も死んで、森の奥に逃げてた第七王子が次の王になったって聞いたけど……その王がぼんくらなんだよ。きっと。だから戦争が終わらないんじゃないの? この国はもう終わりだ。終わってくれた方がいい。こんな思いをずっとするくらいなら……っ」  ぶつぶつと怨嗟の声を漏らしながら、女はふらりと歩き出す。サウィンのことなど、もう視界に入っていないらしかった。 「……三年も十年も、あっという間のことじゃないか」  ずっとというにはあまりにも短い。外で何が起ころうが、森は静かで平和なままだ。短命で、それなのに驚くほどの激情を抱えて争いあうのが人間という生き物だ。関わってもろくなことになりやしない。  ごてごてと見てくればかり立派な城を仰ぎ見て、サウィンはきゅっと眉を寄せる。  美しい城だ。けれど血の香りがあまりにも濃い。 (森の家の方がずっと住み心地が良いと思うけどなあ、ウルド)  裸でげらげらと笑っていたあの少年が、今や国を率いる王だというのだろうか。冗談がきつい。  愛しい壁、などとはしゃいでいたその口で、民に死ねと命じるのだろうか。きっと心を痛めているだろう。そんな姿は見たくなかった。 「家族がいなくなっちゃったなら、帰ってくればいいのに」  君の家族は俺じゃないのか。  呟いた後で、ぱっと口を覆う。今のはよくない。執着なんて、百害あって一利なしだ。   (去るもの追わず。去るもの追わず。少し見に来ただけだ。人の国を見るのだって、たまには面白いし)    何をそんなに焦っているのかも分からぬまま、サウィンは必死で自分に言い聞かせる。  そのとき、ふと町人たちの会話が耳に届いた。 「王都はもうだめだ。隣まで攻めいられたってよ」 「明日、王が出陣されるらしい」 「王の首を差し出して、それで終わりさ。巻き込まれる前に逃げちまおう」 「この国は、なくなるのか。悲しいな……」 「生きてりゃなんとかなる」  生きていれば。  ならば、明日死ぬ運命らしい王は、どうすればいいと言うのだろう。    人間どうしの争いに森の民が干渉することは禁じられている。掟を破ることはできない。けれど、このままウルドを失うのだけは嫌だった。サウィンのことなど忘れて、ウルドがどこかで楽しく暮らしているというのなら許せるけれど、これはだめだ。許せない。  どうせ死ぬ運命にあるのならば、サウィンがもらったっていいのではないか。安全な場所に閉じ込めて守って、苦しみからも不幸からも遠ざけてしまえば、こんな気持ちになることもないはずだ。  サウィンが聞いていることなど気づきもせずに、民たちは疲れたように話し続ける。   「逃げるなら早くしたほうがいい。隣国は、森を燃やすってよ。噂になってる」 「馬鹿いえ。燃やして何の得がある」  それだ!  ぱちんと指を鳴らしたくなったが、サウィンはかろうじて堪えた。人間の争いへの干渉はできなくとも、森と大地を守るための行動は認められる。なぜなら彼らは森の民だから。    噂の真偽を確かめる猶予はない。確かめる必要性があるとも感じなかった。ウルド以外の人間が生きようが死のうが、栄えようが滅びようが、サウィンにはどうでもいいことだ。  介入する口実さえあればいい。女神が寄越した森を守るというのは、正当な理由になるだろう。そうと決まれば必要なのは森の民の長の許可だけだ。くるりと踵を返し、サウィンは走り出す。  急く心を宥め、街の端までたどり着いたところで思い出した。 「あ。なんで俺、わざわざ走ってるんだろ」  飛べばすぐなのに。  人間生活が長すぎて、思考まで人間らしくなってしまったらしい。ひとり照れ笑いをしつつ、サウィンは人差し指をひとふりした。  きらきらと舞う粒子をまといながら、サウィンは擬態をといていく。ざあ、と風に金の髪が揺れた。神か精霊かと見紛うような美しい姿は、まさしく人ならざるもの。本体にまで戻ってしまうと目立ちすぎるから、翼だけを背にはやす。うろこに覆われた硬質な翼は、たった一振りでサウィンを宙へといざなった。上へ上へと駆けるように昇っていくその姿を捉えることができたものは、誰もいない。    風に乗ってたどり着いた森の長の家で、サウィンはいつも通り快活に口を開いた。 「長。ちょっと人間の国をふたつ潰してきたいんだけど、いいかな?」
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