お疲れさん

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お疲れさん

 目覚ましの音ですうっと覚醒する。  葵は手を伸ばしてアラームを止めた。体を起こしてベッドから降りる。うん、体調は悪くない。  制服に着替えて部屋を出る。  リビングへ行くと、母がキッチンで朝食を作っていた。葵はソファーにカバンを置き、「おはよ」とキッチンに入った。  母がにこやかに応じる。 「おはよう。今日も作るん?」 「うん」  葵は冷蔵庫から卵をみっつ取り出し、フライパンをコンロに乗せた。熱してから油を引き、かき混ぜた物を流し込む。  玉子焼きを作るのは日課である。 「一日も欠かさず」と思い込んでいるわけではないが、いまや朝のルーティンのひとつになった。途切れたらむしろ調子が狂うかもしれない。  切り分けたそれをお皿に乗せ、冷ますあいだに食事を済ませる。朝食時のキッチンに玉子焼きが置いてあるのは、一ノ瀬家にとっての日常だ。  ナナセと最後の別れをした日。  学校を早退したうえ門限を破った葵を、両親は問い詰めようとした。だが帰宅した娘のひどく気落ちした顔を見て、母がそっと尋ねた。 「なんかあったん?」  葵は答えられずかぶりを振った。  言葉にしたら現実を目の当たりにすることになる。いまはまだ受け止める自信がなかった。 「ごめんなさい。今日は……もう眠りたいん」  家族は戸惑ったが、それが最良らしいと判断した。母がいたわる。 「お風呂どうする?」 「……入る」 「ゆっくり浸かってき」  葵は、友人の届けてくれたカバンに気付き、ふと思い出した。 「お母さん、ごめん。お弁当……食べられへんかった」 「気にせんでええよ。傷んでるやろうから、ほかそ(=捨てよう)。そういう日もあるわ」  自分の弁当は渡したが、もうひとつを手にシンクへ向かう。  母が提案した。 「一緒に洗っとくで?」 「ううん、これは私が」  袋から弁当箱を取り出す。  フタを開けたとき、中身の一部だけなくなっていることに気付いた。そこに詰めておいたのは、玉子焼きだ。  とたんに葵の視界が潤んだ。  もう我慢できなかった。葵はひざまずいて泣き出した。  突然のことに驚いて、家族が彼女に呼びかける。 「どうしたん。なにがあったん」  母に肩を引かれて、葵はわずかに体を起こす。心配そうな相手に向かって、声を絞り出した。 「ナナセが……遠くに行ってしまったん」  直後に、母に抱きついて嗚咽を漏らした。なにも考えられず、深い沼に沈み込んで溺れる。  しばらくして落ち着いたころ、母が何度も背中を撫でていることに気付き、肩に置かれた父の手を感じた。きっと悠貴も気遣わしげな顔をしているだろう。  葵はうつむいたまま言った。 「……ありがと」  母が静かに確認した。 「お風呂、入れる? 明日でもええで」 「大丈夫」 「上がったらハーブティー淹れたげるから、こっちに顔、出しな?」 「うん」  葵は、家族に詳しい事情は説明しなかった。それでも、どうやら辛い別れを経験したらしいと理解してくれた。  彼女が部屋で泣くと、翌日はみんなことさら優しい。声を殺して嘆くのは難しいから、葵は周りに甘えた。  学校は一日だけ休み、あとは普通に登校している。  葵は毎日、玉子焼きを作る。ラップにくるんで広場の木の根元に置き、学校がある日は帰りに、そうでないときは翌日に回収した。  こんなことをして、意味があるのだろうか。  けれどお供えするようになって知った。供養とは、相手のためにするのではなく、自分のためにするものなんだ。  ささやかな行為が彼女の心を支えた。 「お母さん、今日いつ来るん?」  朝食の場で葵が尋ねると、母が楽しそうに答えた。 「お昼すぎに行くわ。木山さんと森沢さんと待ち合わせてな。高校の文化祭ってどんなやろ? ワクワクするわぁ」 「中学とそんな変わらへんで」 「葵、劇に出たらよかったのにー」 「副委員長やのに、出演までしたらぶっ倒れるわ」  彼女は弟に目を向けた。 「悠貴も来るん?」 「友だちと行く」  すると話題に入れない父がため息をついた。 「ええなぁ、三人とも。会議やなかったら休みたかったわ」 「えっ、お父さん来るつもりやったん?」 「なに、行ったらあかんのか?」  憮然とする父に葵は笑った。 「そんなことないけど。想像してなかったからビックリした」 「でも無理やしなぁ……」  あまりに残念そうなので、彼女はフォローした。 「写真できたら見せたげる。んで文化祭の話、いっぱいするから」 「楽しみにしてるわ」  今日はとうとう文化祭当日だ。  準備期間はあっという間に過ぎ、劇はそこそこの完成度を見た。さすがに最優秀賞を狙えるほどではないが、取り組んできたものが形になるのは感慨深い。  母や弟もどことなくウキウキしている。この空気がお祭りだ。  葵は家を出て広場に上り、玉子焼きを供えた。  そして心の中で語りかける。  とうとう文化祭や。今日明日で終わりやと思うと淋しいわ。そのぶん、楽しまなあかんな。  ナナセも覗いてみて。面白いもんがいっぱいあるで。 「じゃ、行ってきます」  葵はにっこり笑いかけ、その場に背中を向けた。  短いホームルームのあと、展示や模擬店のための準備時間が取られ、放送が入った。 「これより第三十一回、宇津高校文化祭を始めます」  クラスの出番は昼すぎなので、ほとんどの生徒は校内を回るため教室を出ていった。柏崎と葵、主役級の出演者が打ち合わせの仕上げをする。  昼前に、葵は友人と模擬店を覗いて空腹を満たした。  教室に戻ると、じきにクラスメイトも集まった。必要な物を揃えて体育館へ向かう。  舞台袖で出番を待つときは、みんな緊張の面持ちになった。前のクラスが終了したあと、進行役が次の劇について説明する。  こちらの準備が整ったところで幕が上がった。  本番ではなにがどう転ぶか分からない。葵はハラハラしながら様子を見守ったが、劇は徐々に軌道に乗った。  かつて「降りる」と言い放った準主役が、主役の長すぎる間をフォローして事なきを得る。やがてクライマックスへ移行していく。  思った以上の出来に葵は感動し、満足のため息をついた。  いろいろあったけれど、振り返ってみると、ひとつひとつがキラキラしていた。 「お疲れー!」 「やったぁ、終わった!」  教室に戻ってくると、ねぎらい、安堵、解放感といった声があちこちから上がった。文化祭は明日もあるけれど、クラスの出し物は無事に終了した。  なにより、みんな楽しめたようだ。  ひとまずの片付けをし、残り時間を楽しむために誰もが教室をあとにする。  葵は母と落ち合って、劇の感想などすこし話をした。悠貴の姿を見つけることはなかったが、適当に回っているのだろう。  母と別れて教室に戻る。  席に着いて文化祭の終了を待っていたら、数人と雑談中だった柏崎が抜けて歩み寄ってきた。 「お疲れさん」 「あ、お疲れさま。ちょっと前まで『どうなるんやろ』思うたけど、成功やんね」 「てゆうか、本番であれだけこなせるんやったら、『もっとはよう本気出せ』いうの」 「あはは。ええんちゃう、結果よければ」  柏崎もふっと笑った。思い出したようにポケットに手を突っ込み、それを彼女の前に差し出した。  葵が「なん?」と手を出すと、饅頭がひとつ乗せられた。 「どうしたん、これ」  柏崎はなぜかすこし困った顔をした。 「疲れが取れるで」  葵が戸惑っているうちに彼は気を取り直した。 「明日もがんばろ」  そして背中を向けたので、葵はあわてて「ありがと」と声をかけた。  すると相手は振り返ってうなずき、もとの席に戻っていった。  葵はしばらく饅頭を眺め、せっかくだからと包装を開いた。一口食べて餡の甘みにホッとする。  とりあえずは、自分からも自分に向けて。  お疲れさん。
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