置いていかないで

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置いていかないで

 薄い青空の下、生徒たちが通学路を歩いていく。  賑やかな集団や、後輩が先輩に挨拶する声。校庭が近づくと、朝練を終えたハンドボール部が引き上げていくところだった。  葵は校門を通って下足室を過ぎ、廊下を進んだ。  教室に入ると、クラスメイトがお喋りしている。何人かと挨拶を交わす。席に着いてしばらくたってからチャイムが鳴った。  ホームルームで担任からの連絡事項を聞く。教科書とノートの準備をして、数学の開始を迎えた。  やがてチャイムが鳴り、二時間目の化学室へ移動した。実験、レポート、使用した器具の片付け。一分一秒が長く感じる。なのに、気付くと授業は終了していた。  葵は自分の心が不規則に揺れていることを感じたが、なにか失敗して周りに迷惑をかけるような事態は起こっていない。大丈夫、たぶん。  化学室をあとにし、友人らと教室へ戻る途中で。  葵はふと足を止めた。そして振り返る。なぜか、そうしなければいけない気がした。  休み時間のざわめき。  次いで窓の外に視線を落とす。誰もいない校庭と静まり返ったプール。導かれるように、その先の林へ視線を向ける。  葵はかすかに唇を動かした。  ナ、ナ、セ……?  まさか。でも。  パズルがピタッとはまる。彼女が「弁当箱を取りに寄る」と言ったとき、彼は「待ってる」とは答えなかった。  友人たちが振り返り、「どうしたん?」と尋ねてくる。葵は自分が持っていた授業の道具を押しつけて、即座に廊下を駆け出した。 「ナナセ!」  広場に辿り着いた葵は、呼吸を乱しながら叫んだ。  誰もおらず、ただ木の根元に弁当袋が置かれている。辺りを見回したが、求める姿はなかった。  大きく息をついてから木に歩み寄る。弁当袋を持ち上げると、朝と同じ重みを感じた。  ああ、やっぱり……。  ナナセはもう食欲などなかったのだ。  だったら必要ないと言ってくれれば。……いや、そう告げられたら、自分は哀しい顔をしただろう。彼だって、できれば食べたかったに違いない。 「ナナセ……」  改めて周囲をぐるりと見渡す。どこかへ出かけたのかもしれない。きっとそうだ。  さまよう視線を馴染みの木に向けて、ゆるゆると下ろす。放射線状に根が伸び、地面に潜り込んでいる。  そのとき、葵の目が小さな楕円形のものを捉えた。  近づいて凝視する。それは仰向けになった一匹のセミだった。葵は全身を硬直させ、ガクッと膝をついた。  茶褐色の体に透明の羽。ピクリとも動かない。  葵に昆虫の見分けなどつかない。だがそのセミこそが、かけがえのない相手だと感じた。 「ナナセ……?」  弁当袋を置いてじっと見つめる。腕を伸ばし、小さな体を手のひらに乗せた。  作り物のようにセミは微動だにしない。すでに息を引き取っている。鳴くことも飛ぶことも叶わない。  葵の視界が一気に潤んだ。  涙が頬を伝って落ちていく。鼻をすすって切れ切れに息を吐いた。 「ナナセ……」  彼の体はここにある。けれど、もうここにはいない。  目を合わすことも、話すことも、笑うことも、歌うことも、なにもかも。こぼれ落ちて戻らない。  ナナセは、あまりにも遠い場所へ行ってしまった――。  独りにしないで。お願いだから、帰ってきて。  もっと一緒にいたかった。いろんなものを見て、あれこれ喋って。楽しめる場所が、まだまだたくさんあった。  私はなにをしてあげられた?  ささいな出来事で大喜びする彼、思わぬ状況に驚く彼、困って苦笑する彼、真剣に見つめる彼、そしてキラキラした目で空を仰ぐ彼……。  すべて過去になる。  認めたくなくても、手のひらの存在は沈黙している。  置いていかないで。独りでなんて生きていけない。ナナセがいなければ、私は空っぽ。怖くて呼吸もできない。痛いばかりで、心なんていらない。  神さまはどうして、こんなひどいことができるの。ああ、私のせいだろうか。  どうすればいい?  どうしようもない。  葵は声を上げて泣いた。そして心の中で叫んだ。  ナナセ……!  とことん涙を流したあと、葵は幹にもたれてぼんやりした。  感情がこみ上げてくれば、ふたたび慟哭する。やがて嘆く気力もなくなった。ずっとこうしていようか、亡骸と共に。  でも埋葬してあげないと……。  セミを弔う方法なんて分からない。彼が眠るのはどこがいい? やっぱりこの木の根元だろう。  すぐには行動に移せなかった。とっくに息絶えたカラダだとしても、離別するには時間が必要だった。  枝葉の向こうが夕焼けに染まるころ、葵は平たい石を手にして、木の根元を掘り返した。それが終わると、寝具としてのハンカチごと、彼を持ち上げる。また感情がこみ上げた。落ち着いたところで、亡骸を穴の底に置く。  現実感がなかった。もしかしたら息を吹き返すのではと、妄想じみたことを考える。 「ナナセ……」  呼びかけてから、続ける言葉に迷う。働かない思考の中でさまよった。  なんとか声を絞り出す。 「……おやすみ」  意を決して土をかけた。  あっという間に彼の姿が見えなくなる。土を撫でて平らにする。作業を終えた葵は深々と息をついた。  ナナセ、これでええ?  唐突に、涙がポタポタあふれた。地面に落ちて土を濡らす。  こちらの記憶や感情が伝わっていく。この下で眠るのは亡骸なのに、そう思った。声には出さず語りかける。  ナナセ、まだ信じられへん。でもホンマなんやな。  苦しなかった? 看取ってあげたほうがよかったんかな。  ごめん、今は笑われへん。いつ笑えるのかも分からへん。お願い、呆れんといて。  ナナセといた時間が鮮やかすぎて、世界がモノクロになってしまった。  それでも、自分はこうして生きている。  いつか元気になるんかな。想像できひんよ。  でも、可能性がゼロやなんて思いたくない。  なにをどうしたらええんか分からん。明日のことも考えられへん。やから、せめて一秒だけ進んでみる。  あまりにも小さすぎる。こんなん意味あるんかな?  でもナナセは私のこと、私より知ってる。今さら呆れたりせぇへんか。  なぁ、ちゃんと幸せやった?  私は、会えてよかった。  もうすこしだけ抱きしめてて。この波が落ち着くまで。
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