ひとつひとつ

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ひとつひとつ

 文化祭の二日目、葵のクラスはのんびりしていた。ほとんどが出払い、残った生徒もダラダラ過ごすか、大道具などを片付けているかだ。  葵も友人と校内を巡った。  写真部、美術部、映研などは気合が入っていて、見応えがある。ちっとも怖くないお化け屋敷や、いかにも適当なバザーもあったけれど、生徒が完成させた出し物には違いない。  文化祭なんて、なくなってしまえばいい。そう思うときもあった。  でも本当に行われなかったら、きっと淋しい。うちのクラスの手作り感あふれた劇でも、準備期間は張り合いがあった。  教室で文化祭終了の放送を聞いたあと、クラスは解散した。実行委員は残り、明日以降の後始末について話し合う。終わるころには外が薄暗くなっていた。  教室をあとにし、「担任にまとめの報告をする」と言う柏崎とは別れて、葵は下足室へ向かった。  ローファーを履いていると、近づいてくる足音がしたので振り返る。そこにはクラスメイトの女子二人がいた。  彼女らはかつて、「副委員長の要領が悪く、それによってクラスが混乱する」と非難した二人だ。  葵は反射的に顔をこわばらせたものの、実感としては『ずいぶん昔にそんなこともあったなぁ』となかば他人事である。なにせ、それからの日々が濃すぎて、まるで半年や一年ほど過ぎたような感覚だ。  彼女らがまだ学校に残っており、歩み寄ってきたということは、話でもあるのだろうか? 葵はすこし警戒心を抱いた。  二人は目の前に立った。片方がおずおずと口を開く。 「お、お疲れさま」  葵は予想外の言葉にきょとんとした。 「……お疲れさま」  とりあえず応じてみる。  彼女らは顔を合わせて、それから意を決したように言った。 「あのう……前は、けなしたりしてごめん」 「私ら作業もいいかげんやったくせに、一ノ瀬さんのことあげつらって、アホやった」 「委員の二人がまとめてくれへんかったら、絶対に昨日みたいにうまくいかんかったよ」 「一ノ瀬さんががんばってくれたからやわ。私、参加すんの楽しなっとった」 「やな。面白かった」  思わぬ言葉を次々と送られ、葵はあっけに取られた。  二人は不意にしゅんとした。 「だからごめん、ひどいこと言うて。一ノ瀬さんがイキイキしてんの、うらやましかったんかも」 「自分がおんなじ立場やったら、ぜんぜんできひんと思うし」  そこまで続けて、彼女らは「あれ、なにが言いたいんやっけ?」「あー、分からんくなってきた」と混乱の様子を見せた。 「ともかく!」  一人が詰め寄ったので、葵は思わず背筋を伸ばした。 「文化祭たのしかった。ありがと」 「ありがとう」  葵はすんなりとうなずいた。 「こちらこそ。私、べつに気にしてないから。がんばってくれてありがと」  ようやく二人はホッとした笑みを浮かべた。 「それじゃ、また明日」 「バイバイ」  そしてその場から離れていく。けれど途中でピタッと止まり、振り返った。 「一ノ瀬さん痩せた? 無理してんちゃうかって、みんな心配してたで」 「えっ、大丈夫。けっこう委員長に押しつけたし」  おどけて肩をすくめると、彼女たちは安心した様子で去った。  一人になった葵は深く息をついて、靴箱にもたれた。  予想外の展開で混乱している。もちろんイヤな感じではない。胸の中はあったかかった。  わざわざ謝りに来るなんて、あの二人、けっこう引きずってたんだ。たしかに自分も落ち込んだけれど。  あれからいろいろあったから。  みんなに心配させたなんて、まったく気付かなかった。普通に活動していたつもりだけれど、思うほどいつも通りではなかったのかもしれない。  ほんとうは、辛かった。  もちろん学校のことではなく。日常を送りながらも、心はそこになかった。  いつか笑顔を見せてあげたい。でもどう歩めばいいのか。  また逢えるっていつ? いますぐあの笑顔が見たい。  玉子焼きを広場に供え、その日の出来事を語りかける。次第に、彼は耳を傾けてくれている、と感じるようになった。  見ることも触ることもできない。  けれど、そばで葵を見つめているのかもしれない。  授業前でも、食事中でも、ベッドに潜り込んだあとでも。心を開けば、彼は傍らにいる。  川の涼しげな流水音に、空を伸びる飛行機雲に、色とりどりの花に、吹き抜ける心地よい風に。リン、と心が鳴ったとき、葵は彼を感じた。  なぁ、分かる? 素敵やね。  いま、彼の目はきっとキラキラしている。  ヒトのカタチをしていたころは、朝夕と土日だけ一緒だった。いまはずっと隣にいるとしたら?  心強い。  そして、心しなければ。  無理する必要はない。でも投げやりな姿を見せたら、情けない。自分はこうして生きているのだから。  そばにいる?  ううん、すこし違う。  授業でノートに記す一文字に、教室掃除で足元に落ちた一枚の葉に、頼まれた買い物の重みに、ベランダをびしょ濡れにする強い雨に、彼が宿る。  ひとつひとつと向き合うことが、彼につながっていく。  抜け殻になって「なにもかもどうでもいい」という思いから、一気に目が覚めた。  ああ、心を忘れたあいだに、いったいどれだけのものを見過ごしただろう。取り戻すことはできなくても、いまから。  小さなカケラを積み上げていく。  なぁ、お願い。「世話のかかるやっちゃなあ」と苦笑いして、もうすこしそばにおって?  痩せたのは事実だ。  食べられなかったわけではない。それまでと同じだけの量を口にした。なのになぜか体重が減っていく。  それは一週間で止まった。ナナセと別れた直後は、知らず知らずのうちにどこかでエネルギーを消費していたのかもしれない。  文化祭が終わって、またひとつ区切りがついた。  進むのは一秒ずつでもいい。積み重なっていけば、未来が現在になる。  そんなふうにしかできない。  そんなふうにならできる。  自分が出会うものに彼が宿る。  校舎を出た葵は夜空を見上げ、下足室での和解を思った。  これってナナセからのプレゼントなん?  そう思うと、さらに心があたたかくなった。  ありがとう。  ナナセが満面の笑みを浮かべる。そのまぶしさが尊くて、葵は屈託のない笑顔を広げた。
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