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side B はじめての微熱
敦司。来て。
3月。暖かい日もちらほらあったけど、その日はめっちゃ寒かった。天気予報では、冬に逆戻りですって言ってた。
駆けつける以外の選択肢はなかった。
あんな声で。電話越しだってことが、すごくもどかしく感じた。
もどかしいってこういうことなんだと、そのときはじめてわかった。苛立ちよりもっとずっと、吐き出しづらくてどろどろしてた。
ばばあを脅して、風邪で熱があっても食べられる物を聞き出す。
家に買い置きしてあったレトルトのお粥と、梅干しの容器を持たされる。
晃ちゃんが本当に調子悪そうだったら知らせて、と言われる。
それから、冷蔵庫に入っていた、こないだ姉ちゃんと旦那さん(と甥っ子)が持って来たちょっと高級なプリンも盗む。
晃士には甘いもんありゃ何とかなるだろ。
「大丈夫だから。な? 食えば何とかなるって!」
何が大丈夫なんだか自分でもわからなかったが、ともかく。
まるで俺自身に言い聞かせるようだった。
晃士は裸足を三和土にぺたりとつけて、玄関に座って待ってた。
はんぶん瞳におおいかぶさったまぶたは、薄ぼんやりと染まっている。
家に入りしな、俺は晃士から目をそらすと、キッチンに勝手に入る。
37、5度。
発熱そのものは大したことないだろう。
追い立てられているけれど、それが何なのかわからない。
さっき電話で晃士の声を聞いてからだ。
台所でレトルトパックを温めていると、背中から晃士が抱きついてきた。
「…危ないぜ、お湯が、」
背骨が軋む音が聞こえてしまいそうだ。
「あったかい…」
首のつけ根に、吐息まじりの声がかかる。
俺は、暑いよ。
「………ほ、ほら。できたぜ」
動揺して、器に移すとき米をこぼしてしまう。それを片づける手も、おぼつかない。
まだ晃士はくっついてる。コバンザメかよ。
「梅干し、乗っける?」
「…うん」
ぜんぶ平らげたから、とりあえずほっとする。
プリンのつるっとした表面をすくう。口に入れて、唇からまた出てくるスプーンは濡れている。
テーブルで向き合って、まじまじと見つめてしまう。目が離せない。
目は口ほどに物を言うって言葉があるけど、晃士の場合、唇が、何も発さなくても何か言ってる。言おうとしてる。
さむい?
さみしい?
「…部屋行って、寝た方がいいんじゃね?」
動悸がやばい。
俺のと似たりよったりの、机とベッドとクローゼットくらいしかない晃士の部屋。ソファも座るスペースもろくにないから、並んでベッドに腰かける。
晃士は爪をちょっと噛んだりしている。明らかに俺を見ない。
俺はずっと敦司のこと好きだったけどね。
あのあと、何が変わったということもなく、同じ中学だったやつらを交えていっしょに遊んだりしていた。
そのことについて深く考えたことはなかった。
好きということの、明るい部分だけをみていた。好きイコール明るくて楽しい、という単純明白な図式。
好きという感情の、湿ったところ、制御できない部分、場合によっては乱暴さ。
それを俺は知っていて、でも、明るい場所しか知らないふりをしていた気がした。
「…帰るから…」
このままここにいたら。
俺は、自分でも知らない俺になってしまうかもしれない。ひやりとした予感。
なぜかてのひらをジーンズで拭った。
「つらくなったら連絡して」
立ち上がろうとした。
「敦司」
こっちを、見ない。
「………きて」
うつむいたまま、ぽつりと唇の先からこぼれた。
このとき俺の心臓がたぶん、止まった。
さっきまでの急いた感覚がすうっと引いて、かえって冷静になった。
欲しいんだもん
その、原初的な欲望の意味。
晃士は待ってる。
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