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目の前のカウンターに、美味そうなおでんを乗せた皿と熱燗の徳利とお猪口が並んだ。箸は割り箸などではなく、重みのある木材を用いて精巧に作られた、極めて上質なものだった。
失踪前――二十年以上も前のことになる――私たち舎弟を並べて黒瀧が言ったことを思い出す。
箸ってやつは大事だぞ。横着して割り箸で飯を食らうようなやつは一生偉くなんかなれねえし、金持ちにだってなれやしねえんだよ。
言うだけのことはあって、黒瀧はいつも高級な箸を持ち歩いていた。どこで飯を食うときにも自前のそれを使った。親分や叔父貴たちはそれを酷く嫌がったが、黒瀧はそんなものどこ吹く風とばかり、とことんまで我流を貫いた。あの頃の黒瀧は、私たち駆け出しの三下にとって、とてつもなく眩しく見えたものだ。羽振りの良い黒瀧源助は、いつだって私たちの憧れだった。
「お客さん、うちにおいでになるの初めてですよね」
「ああ、そうだよ」
「この辺りの人じゃないでしょう」
「わかるかね」
「ええ、まあ。雰囲気でね」
「東京だよ。新宿だ」
「へえ。こりゃまたずいぶん遠くから」
「遠いには遠いが、新幹線で三時間か四時間の距離だ。来ようと思えば来れないこともない」
「まあそうなんですがね」
黒瀧の視線が、私の左手に本来あるべきはずの小指の辺りに注がれている。警戒しているのだろうか。だが私が何処の誰なのか、それはまだ思い出せていないようだ。
私は濃い色のサングラスで顔を隠したままおでんを酒で胃袋に流し込んだ。おでんの味付けは、またこの店に来たいと思えるほどに素晴らしかった。だが私はもう二度とここへは来ないし、来たとしても二度とこの店のおでんを味わうことは出来ない。なぜならこの店の主人である黒瀧源助は今夜のうちに鉛玉を食らって死ぬからだ。
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