黒瀧の首

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浅黄色の看板が妖しげなひかりを放っていた。それはあの世へと誘う灯台の明かりに見えなくもなかったが、よくよく目を凝らして見れば、それはやはりただの飲み屋の看板には違いなかった。 看板の文字は、おでん桔梗野と読めた。ただのおでん屋には違いないが、私にとっては特別な店だ。何しろ二十年もの間行方を探し続けていた男に逢えるはずの場所だからだ。 まだまだ秋だと思っていたが、暦の上ではとっくに冬である。宵闇の寒さに身をすくめる。 引戸に手を掛けた。戸車が壊れかけているのだろうか。滑りが悪い。引戸の動きに妙な引っ掛かりがあった。構わず開け放って暖簾を潜って入り、カウンターに備え付けられた木製の簡素な造りの椅子に腰を落ち着けた。手にしていた古ぼけたスポーツバッグを足下の辺りに寄せて置いた。 店の中は閑古鳥が鳴いていた。誰もいない。客はおろか、店の者さえも。だが店は開いている。灯りはついているし、暖房は程よく効いている。おでんの香りも漂っている。有線のスピーカーは私の知らない演歌を垂れ流していた。 店の主人(おやじ)――醤油か何かを切らして、慌てて買いに走っているのだろう。 私は上着の内ポケットから煙草を取り出しかけたが、しかし思い直してそれを元の場所に戻した。 私は店の主人を待ち続けた。 不意に引戸が妙な音を立てて引っ掛かりながら開いた。私は反射的に顔を向けた。会社員風の男ふたりが千鳥足で暖簾を割って、酒に呑まれた無様な赤ら顔を覗かせていた。 私は左腕に巻いた安時計を一瞥した。 まだ泥酔するには早すぎる時間である。酒は好きだが、酒に呑まれるような輩は好きになれない。そもそもからして邪魔である。私は思わず舌を打ち鳴らした。 「閉店だ。他へ行け」 私が低く言うと、酔っ払いふたりは互いに顔を見合わせて一言二言囁き合い、それから焦点の合わない眼差しで、私の左手の小指が欠損している様を長い時間をかけて見つめてからすごすごと退散していった。
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