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「だから寝てていいって言ったのに…」
仙台駅。始発。
「晴だって今日、仕事なんだろ」
「ううん、平気」
あくびをかみころした僕に廉はあきれて、でも、うれしそうな顔をする。
昨日の夜のことを思い出す。
これ…前の部屋のだろ?
本棚の空いたスペースに置いた豆皿。そこに乗せてある鍵を、廉は取り上げた。
あ、うん…。
あまりにも感傷的な僕を見られてしまったみたいで気恥ずかしくなる。
東京で住んでいたマンションの部屋のものだ。
本当は退去日に管理会社に返さなければいけない決まりだ。
でも、スペアキーだけを返却した。僕が持ち歩いて毎日使っていた方は、こっそり手元に残した。
もちろん悪用するつもりはないし、僕が引っ越した後、鍵は付け替えられたはずだ。だから許してもらおうと勝手に決めて持って来た。はるばる仙台まで。
廉は自分のキーケースからなにかを外して見せた。
俺も実は持ってるんだよね、ずっと。302号室の鍵。
賃貸なんて引っ越したらなにも残らないから、せめて、と言った。
僕たちはそんなところでも同じだったんだ。
廉は電光掲示板を振り返って新幹線の時刻を確認する。僕に向き直る。
「晴。手、出して」
「え?」
「できれば左手」
なんだろう。手を差し出した。廉はポケットからなにかを取り出した。
見慣れた、褪せた皮のキーホルダーがついた鍵。
廉が寝落ちしたとき、外からそっと鍵をかけて給湯器の上に置いて帰った。廉が仕事に出る時間になって、僕は部屋にひとりで残って映画を最後まで観た。そのときポストに放り込んでいった鍵。ふたりでコンビニに行ったとき廉に長くなりそうな電話がかかってきて、先に戻っててと言って鍵を預けられた。心の中ではすごくうれしかった。
ぜんぶ、おぼえている。ずっと忘れない。
廉は僕の手を取ると、キーホルダーの金属の丸い部分を指に通した。薬指。
なにか言うために呼吸をするいとまもなかった。廉はその指先にキスを落とした。少し乾燥した、でも、柔らかくて、温かく湿った唇。
その伏せた睫毛と、影がおちた瞳が、あまりにもきれいでただ立ち尽くす。
それを勘違いしたのか、廉は照れくさそうに笑った。
「いつか本物を贈るから」
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