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「飛梅」
ふいに境内に、低く深みのある声が響いた。
ぱっと体が反応する。
振り向くと、その勢いに揺れて私の顔を隠した髪の隙間から、一瞬流れるように美しい輪郭が覗いた。
ぱちっと瞬きする間に、重力に従った髪が肩にかかって、視界が晴れる。
黒く艶めいた髪。筋の通った鼻。
淡い桜色の唇はゆるく笑みを形作り、穏やかな切れ長の瞳が、優しく私を見つめている。
「道真様」
「今年も梅はたくましいな。如月が楽しみだ」
私から私の背後の梅の木へとゆるりと視線を動かし、微笑む道真様____私のご主人様で、この太宰府天満宮の御祭神だ。
神様としては「天満大自在天神」という神号をお持ちなのだけど、私にとって道真様は神に成られても道真様で、ご本人からも「道真でよい」と言われているから、今でも生前の名前を呼ばせていただいている。
____私の、大好きな御方だ。
駆け寄ると、道真様は愛しそうに瞳を細めて私を見る。
その愛しさが、家族……たとえば娘に向けるものだと分かっても、胸が傷まなくなったのは、いつからかもう分からない。
道真様は私より顔一つ分高い。私の頭のてっぺんが、道真様の肩より少し低いくらいだ。
「道真様、お仕事はよろしいのですか?」
「今終わったから、梅を見に来た。やはりこの時期は、梅に限るな」
整ったラインの顔をつっと上げて、もう一度梅の木を眺める。
道真様は梅が好きだ。
嬉しそうに梅を見つめて感嘆する姿を見ると、嬉しいと同時に、それ以上に、少し切なくなる。
「宣来子様も、喜ばれるでしょうか」
「ああ、今日の仕事が全て片付いたら、此処に連れ出してこようと思っている。あいつも梅は好きだ」
道真様のご正室であり、今は霊としてこの神社で生活しながら道真様を支えている宣来子様の話になると、道真様は子どものように顔を綻ばせた。大人で、たくましくて、神様としての道真様ではなくて、ただ普通に心から信頼している女性を想う、夫の顔。
その顔が一度も私に向けられたことがないのは複雑で、だけど道真様のその表情が見たいから、楽しい気持ちであってほしいから、私は気がつくと宣来子様の話題を持ち出してしまう。
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