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「……え……?」
か細い声が、再び吹いた風にさらわれていく。
私はぱちぱちと数回瞬きをして、もう一度あたらよの腕を掴み、頭一つ分……に届かないくらいの高さにあるあたらよの瞳を見上げた。
「待って、私、飛梅だよ!? ひ・め! 憶えてない!?」
「いや、誰かと間違えてるんだろ……。そもそも僕の名前あたらよじゃないし。なに、そのヘンな名前」
「あたらよじゃないの!? ……じゃ、誰?」
小さく首をかしげて、あたらよに似たその男の子を見上げると、一瞬ひどく顔をしかめて……その口が、小さく開いた。
「……可惜夜」
「よる? え、よるって夜!? 漢字も!?」
「漢字……? 普通に、夜中とかの夜って書いて、そのままよるだけど」
「へえええ、へええええ!! 夜かあ、素敵な名前!」
「はあ?」
夜と聞くと、道真様に会いに空を飛んだあの日を思い出す。
澄んだ空気、弾む胸、空の夜の匂い、ほんのり熱い頬。
全部鮮明に、たった今体験したばっかりのことみたいに憶えてる。
「夜って、一日で一番素敵な時間だよ!」
「……そんなことないだろ」
興奮して息を弾ませる私に対し、返ってくるのはかすれた声の冷めた返事。男の子――夜は、ぎゅっと眉根を寄せたかと思うと、くるっと身を翻した。
「え、あれっ? どこ行くの?」
「どこって、帰るんだよ」
「え、なんで!? もうちょっとゆっくりしてけばいいのに、ちゃんと本殿見た!? あ、道真様は今は本殿にはいないよ、さっき――」
「はあ?」
前のめりにまくしたてる私に身を引きながら、あたらよ――夜は迷惑そうに眉をひそめた。
「いや、何訳わかんないこと言ってんだよお前……。俺は早く帰りたいんだよ。本殿にもちゃんと参拝したし、もうここに用ないから」
「ちょっ……と待って!」
せっかく、せっかく、千年ぶりに会えたのに。
絶対にあたらよだ。
だって、私の魂が震えてる。
心がはっきりわかるんだ。
今目の前にいる夜の魂は、千年前ずっと私と一緒にいてくれたあたらよと同じで、そして――なぜかわからないけど、傷ついているような、血だらけで泣いてるような、そんな気配がするんだ。
表情や仕草はいくらでも誤魔化せても、取り繕えても、その体の奥、人間の根っこにある魂は、精霊相手に嘘つけない。
「あのっ……明日も! 明日も、お参り来て!」
「はああ? あのさ、僕今時間がないんだけど。一回で十分だろ、お参りなんて」
「そっ、そんなことないですよ! 何回もやれば、そのぶん想いが通じやすくなって――」
「あーはいはい。わかったわかった」
「絶対わかってないよね!」
どうしよう。
触れたい。
知りたい。
あなたの傷を、必死にまとった体の下で、ぐしゃぐしゃになった心を。
だってあんなに、一緒にいたのに。
千年ぶりに、やっと会えたのに。
何も知らされず、何もできず、こんな、ほんの一瞬の会話だけでまたさよならなんて、嫌だ。
もっと、もっと、一緒にいたいのに。
心配で、どうしようもなくなって、もしあたらよを傷つけるなにかがあるなら、それをすべて取り払いたいのに。
なにも、できない――
「なんだ。どうした、飛梅?」
ふいに私の小さな耳を、低い、落ち着いた、大好きな声が揺らした。
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