魔法少女は34歳 本編

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 聴いたこともないような甘美なテノールが、空中に響き渡る。夜に囁くように歌っていたそれとはまるで異なる、朗々として、それでいて妖艶さもある魔力的な響きが、耳から流れ込み、耳ではないどこかをまるで嵐の海のようにかき乱す。  海へ、このまま飛んで行けたら、豊かで美しい『私たちの海』へ。  まるで知らないはずなのに、美しい海に浮かぶ誰も知らない秘められた島こそが、自分が生まれ育った場所のように感じてしまう。そんな不可思議なありもしない懐かしい感覚が、くらりくらりと玲奈を覆う。  争うこともなく日々過ごす『同族達』とのおだやかな日々。誰からも、どんなレッテルも貼られず、後ろ指を指されることもなく自由に生きていける場所。心に浮かぶそんな甘美な何かが、思わず彼女がハンドルを握るこの魔法のロケットの行き先を、この町からも遠くに見える水平線の方へと変えてしまいたくなる。自分の世界ではない世界へと、甘くいざなう歌声。 「けれど、あなたは」  心の中に浮かぶ、このセイレーンの男の瞳の色にも似た美しく青い海。様々な甘美な景色と誘惑。異種の女達の住まう園への誘い。 「……おれは海の楽園の果実だ。数多の女のために実を結び、喰われ、種を残すだけ。潤すことはあれど、潤されることはない。それがセイレーンの雄の、王たる男の義務だ」  夢見る様な瞳をしたセイレーンの女達が次々とUターンし、海を渡る鳥のように、雲の上から水平線の方へと群れを成して飛んでいく。 「ロートス・イーター」 「ロートス、でいい」 「……あなたは、本当にそれでいいのですか」  二人を乗せたロケットが、今度は静かに音もなく、町はずれの人気のない公園へと降りていく。 「この世に生まれ落ちた時から、おれはそうできている」 「では私は、また救えないのですね」  コンパクトがからりと空虚な音を立てて地面に落ちる。 「落ち込むな。おれは………」  金色の翼が自分を優しく包む。 「お前はそんなおれを癒し、おれは良い日々を過ごした。おれが、おれを取り戻すことができるだけの滋養を、おれに与えたのはお前だ。レーナ」  音もなくパターンXが解除され、普段の姿に戻った玲奈の、同じく元の色に戻っているいつものひっつめた何の変哲もない髪を撫で、コンパクトを拾い上げる。 「お前はおれと違い、己の義務を『より良く』果たそうとしている。お前を縛る孤独な檻の中から飛びたち、よい世界をつくろうと足掻いている。……だからおれも、ただ海の果てで貪り食われる楽園の果実ではない、ひとりの意志ある者として、良き王になり、おれの、そして女達の海を治めるべく、もう少し足掻いてみたい。おれを救ったお前のその心に、恥ずべきところのないように」  拾い上げたコンパクトを玲奈に渡して、ロートス・イーターは少し屈み込み、囁く。 「おれはお前が愛おしい」 「あなたを………もしもあなたを愛おしいと思ってしまったら、私は辛くなるのかもしれない。けれど、けれど………今、ここで、臆病になるのは、嫌です。けれど、ああ、けれど…………」 「お前は自分を偽れない。揺れない女だ」  たった一昨日治したばかりの翼ある腕で抱き寄せられ、甘くほろ苦い果実をゆっくりと押し込まれるような口付けを交わす。  楽園の果実とは、自分にとってはほろ苦く、涙のような味さえするものらしい。唇から味わっているはずなのに、胸が詰まる。  人ならぬ指先でまさぐられた玲奈の髪から髪留めが地面に落ち、かけていた眼鏡が静かに外される。 「………もしも今、揺れていても?」  抱きすくめられたまま、玲奈が小さな声で問い返す。小さく、そしてこの女からは聴いたこともないような、不安げで、泣きそうな顔をしながら少し震える声はまさに『雛鳥』だ。そんな姿を決して誰にも見せずに、この女は己の義務を果たすために独り、生きてきたのだろう。ロートス・イーターが静かに微笑んだ。 「おれにはお前を知るだけの時間があった。奇跡のような時間だ。それをおれは、幸せに思う。だが、お前をより知るだけの時間が、もう少しだけある。揺れているお前をこうして見つめて、愛するだけの時間が」  通る人もない町外れの小さな公園の片隅でひとつに溶け合っていく金色の影を優しく隠すように、夕暮れの木陰の光が降り注いでいった。
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