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市役所の非常用階段は夕方以降に使われることはない。二人で足音を忍ばせて階段をのぼり、屋上までやってくる。
「お前は、どうする」
「………」
C35は35歳までしか使えない。35歳の誕生日がやってくる二ヶ月後までには、後進に中部支局長の座を譲り渡して魔法少女協会を正規に退職し、一介の公務員女性に戻る手筈だった。
「レーナ。我が海へ来るのならば、妃として迎えよう」
「それは……私には」
自分はこの歳になるまで『魔法少女』として生きてきた。これからまだ成したいことがある。
それはきっと、『世間様』からは相も変わらず何かしら言われるような、そんな生き方だ。
父から気まずい電話がかかってきて、母や同期達からは無邪気にいつ結婚するのかを問われるような、そんな変わらぬ日々。職場には『女性が活躍できるように』などというどこにでもあるようなスローガンがかかっているが、それはすなわち今までは活躍の場すらなかった女性が数多くいる証でもある。自分が本当に、自分の描く夢を叶えられるかも不確定な未来が、この先には待っている。
いっそすべてをかなぐり捨てて、海の彼方でこの男の妃になってみるのも悪くない。だが、
「悪くない選択肢ですが、私には私の道があります」
玲奈は眼鏡をかけ直して、静かに言った。ロートス・イーターの美しい海色の瞳もまた、揺れることはなく穏やかに凪いでいる。
「そうだ。それでいい」
「ロートス」
「おれは、より多くの子孫を残すのが使命だ。愛など、知らぬほうがいい」
「いいえ、愛して」
「お前をか」
「……いいえ。いつか生まれてくるはずの、あなた自身の子どもを、です。両親の不和、そして親から愛されない子どもは、幸せになるのが少しばかり難しいことが多い。私は仕事柄、何度もそれを見てきました」
すべての子どもが魔法を使えるわけではないのに、助けを求める子どもたちのなんと多いことか。玲奈の首から下がっている役所のICカードの『福祉部児童家庭課』という文字が、市役所の屋上を吹き抜ける風に揺れる。
「子どもか」
「不幸になる子どもを、一人でも減らしたい。それを私は、ここから、この町からはじめると、決めたのです」
それこそが、魔法少女として少女時代に多くの事柄を、そして世界すら救ってきた自分が、いつかその役目を終えた後の奉職だと、玲奈はもう何十年も前からずっとそう定めていたのだから。
何でも出来て、何でもなれると信じていた未来を、もっと身近な場所から歩き出すために。
「……自分の幸せを諦め、誰かを愛することをやめてしまうと……何か大切なものをなくしたまま、たったひとりで孤独な道をひた走って行くことになります。あなたがそれを、私に思いださせてくれた。感謝しています、ロートス」
34歳。誰がなんと言おうと、まだ新たな人生を踏み出せる歳である。自分が自分に課した夢や目的、そして少女時代から続いたひとつの義務、後進の魔法少女の成長を見守り終えた最後に、ほんの数日共に過ごした金色の翼の不思議な男と心を通わせた思い出まで得られた自分は、間違いなく幸せなのだ。
「あなたになったあなたを、もう蹂躙する者はいない。だからあなたを種を持つだけの雄ではなく、一人の男としてみてくれる心優しいセイレーンも、いつかきっと現れるはずです。……その人を、愛して」
「………」
「私にはまだやるべきことがあって、海へ行くことが出来ない。けれど……海を見る度に、あの海の向こうには……私がよく知る人が、幸せに暮らしていると信じさせて欲しい」
「欲があるのか、ないのか、わからない女だ」
少しばかりの痛みを抱えたような、複雑な表情でロートス・イーターが言う。
「この痛みは、あの騒々しい杖では癒やせないのか」
玲奈が微かに微笑む。
「ええ、癒やせません。私の痛みも」
そんな玲奈の柔らかな微笑みを初めて目にした男が、僅かに目を見開き、そしてゆっくりと微笑んだ。
「そうか」
ふっと屈み込み、羽の生えた金色の腕を玲奈の背中に回す。そして玲奈の唇を甘噛みするように、やや動物的な、鳥のような仕草でついばむ。
「ああ、ああ、やはり、陸に残すのは惜しい。力尽くで、攫うべきか」
「……」
「もっと、もっと欲しくなる。全てを、指先から、髪の一本一本まで。お前となら、子を成してもいい。……だが、それは、お前にとっては、ちがうことだ。だから、おれは、そうしない」
玲奈を再び、しかし夕暮れの公園で抱きしめたそれよりも更に強くかき抱きながら、ロートス・イーターが呟いた。
市役所の屋上から遥か遠く夕日が落ちてゆく水平線が、男の美しい金色の髪を彩るように、ひときわ美しく輝く。
「お前は、お前だ。騒々しい杖がなくとも、妙な服がなくとも、胸に誇りを抱いたひとりの気高い女だ。時に揺れることがあっても、決して揺るぐことはない。……だからおれは、お前が信じるおれになろう」
ロートス・イーターは空を見上げ、僅かに震える玲奈の黒い髪を、長く節くれ立った指先で梳いて、笑う。
「そして、誇り高いセイレーンの王になろう」
そして腕をゆっくりと広げて翼を伸ばし、
「さらばだ、レーナ、お前はどこにいてもおれの愛だ」
伸びやかに、呵々朗々と笑う。生きる者としての尊厳を取り戻した、王たるものの笑みだ。
玲奈がぐっと背を伸ばし、そんな男の唇に、優しく唇で触れる。
「さようなら、ロートス・イーター。あなたも、私の愛です」
夜の空に金色の翼が眩しい。目に焼き付くようだ。そしてきっと目ではなく心に焼き付くのだろう。一度焼き付いたらきっと二度と消えないものを今目にしている。
自分は今まで永遠というのを信じたことがあっただろうか。
恋や愛というものを置き去りにしてひたすら走り続けた34年目に、こんな形で永遠を目にすることになろうとは。
だが、それでいいのだ。
目の端からポロリと頬まで転がり落ちた雫を、舞い上がりながら羽根の生えた人差し指で掬い取って口に含んだ男が笑う。
「最後に、お前の中にあった、このひとしずくの海だけを、おれは貰っていこう」
ひときわ大きな羽音が屋上に響き、金の翼を持った半人半鳥の男が空へと舞い上がる。
そして、とうとう日の落ちた夜の海へと向かって一直線に、大きな羽音を残し、矢のように飛び去っていった。
金の羽根が一枚、玲奈の足元にひらりと音もなく舞い落ちる。
それを拾い上げ、しばらくひとり空を仰いだ後に、玲奈はコンパクトC35を取り出して通信機能をオンにする。そして
『……本部。「コードネームLE」ロートス・イーター、己の海へ帰還。中部支局長マジカル☆レーナ、ケース5472任務完了。これより、帰投します』
努めていつもと変わらぬ様に通信機に告げると、静かに蓋を閉じてスーツのポケットへしまい込む。
そしていつも通り、眼鏡を手の甲で押し上げて、言葉では言い表せないなにかを胸の中に飲み込んでから、大きく息を吐く。
ふと、鞄にしまってあったスマートフォンに着信があったことに今さら気付いて少し目を丸くする。珍しくそれは父からではなく、母からだった。魔法少女の同期達のSNSのグループにも、いつもと変わらない、それぞれの家族の写真などが流れている。
いつもと変わらぬ日々が明日からも訪れるはずなのに、そこには不思議と、いつも僅かに感じていた疎外感はもうなかった。
そして、誰もいない屋上でそっと金色の羽根を胸に押し当てて目を閉じてから、足立玲奈、34歳の魔法少女はひとり、屋上の階段を静かに降りていった。
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