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ベッドの上で、正しくはセイレーンの男の腕の中で気を失っていた時間はどのくらいだったのだろうか。気がつけばとっくに夕方近い時間になっていた。
「……おれは、己の立場を憎み、あるべき場所から逃げようとしたが、お前は逃げなかった」
「私こそ、配慮のない言葉を詫びねば。あなたが怒って当然です」
「………」
静かに解放された玲奈が再びキッチンに立つ。粥を溢しかけた口元を丁寧に拭い、大きく息を吐いて眼鏡をかけ直し、二日酔いのように頭の中にこびりつく甘さでぼんやりしがちな頭を振る。
そしてまるで偶発的な情事にも似た先程の一件を頭から振り払うように、つとめていつもと変わらぬ語調を装いながら聞いた。
「……とにかく食べて、体力を回復させてください。肉は食べられますか」
「魚と果実以外は、食べたことがない」
念のため肉は避けておこうと冷凍シーフードを選び、解凍するとコンソメスープの中に手早く放り込む。
そして出来上がった食事を片っ端から机へと並べていく。朝食用のリンゴやバナナなどといった果物もそのままテーブルへ起き、玲奈は再び聞いた。
「腕の骨の具合はどうです」
「上々だ。二度と飛べぬかと諦めかけていたが、そうでもない」
「あのステッキは怪我を癒やしても体力は戻せませんので、休息を。後でお風呂を湧かします」
「オフロとは何だ」
「室内用の水浴び場所、とでもいいますか」
「水浴びなら必要ない。それよりも腹を満たさねば」
「そこにあるスプーンを使ってください」
「スプーン?」
「こうです。こうして中身を掬ってください」
「口移しは気に入らなかったか、雛鳥」
ふと、思いだしたように口にするロートス・イーターに、
「……私達人間の間では、きちんとスプーンを使えない歳の子供を雛鳥といいます」
玲奈はぴしゃりといつもと変わらぬ事務口調で返事を返す。
「なるほど、人間とは不思議なものだ。お前を雛鳥と呼んだことを、おれは詫びねばならないようだ」
高貴な出自ではあるらしいが、この男には妙に素直なところがある。そんなことを考えつつスプーンの使い方の手本を披露する玲奈の手元を見ながら、人ならぬ手でスプーンを握りしめたロートス・イーターが、あっという間に食事を食い尽くす。相当空腹だったのだろう。
玲奈は部屋に備えていた非常用食糧の備蓄の中から栄養価の高いものを取り出して、片っ端から封を開けて果物の隣に並べていく。
するとロートス・イーターは、スプーンを使うのも惜しいと言わんばかりにそれらを、まるで古代の食卓の様に、所作の美しい手掴みで次々に、片っ端から食べていく。
古代に生きる者というのは皆、このように食事をしていたのだろうか。手掴みだというのに所作に王族ならではの不思議な威厳がある。
面白いように食べ物が消えていくテーブルの上の様子を見てさすがに目を丸くした玲奈が言う。
「お手拭きを持ってきます」
「オテフキ?」
「食べた後の手を拭くものです」
ロートス・イーターが首を傾げるのを見て、ふと玲奈は思い立つ。
「もしかして、フィンガーボウルの方がいいでしょうか。器に水を張ったものです。手を洗うための」
「それならば」
机の上に出した食物すべてをあっという間に食べ終えたロートス・イーターが、フィンガーボウル代わりに玲奈が差し出した水を張った陶器を珍しげに眺めながら、言った。
「美しい水だ。どこから汲んできた?」
「そこのキッチンです。家の中に井戸があるようなもの、と認識していただければ」
「……海の香りのしない水か。家の中にそんな貴重な井戸があるとは」
「貴重?」
「我が海の、われらが住まう地ではそうだ。清らかな清水は値千金だ。食糧よりもよほど」
そう言いながら高貴さすら漂う所作で静かに水に手を浸し、乾いたタオルで翼と一体化している手の指先までをこれまた少し不思議な所作で拭いとる。そして、
「お前も食べたらこの寝床に来い」
至極当たり前のようにロートス・イーターは言った。
「……そこに、ですか」
思わず目を瞬かせて玲奈はキッチンで立ち尽くす。
「お前がいると、よく眠れる。それだけだ。お前も休む必要があるのだろう」
「それは……」
つかつかと歩いてきた男の、問答無用で折れていない方の片腕で抱き上げられてベッドに運ばれる。昨夜のひどくうなされて眠る姿を思い出して、玲奈は粛々とそれにしたがうことにした。
「あなたが眠れるのなら」
「お前を眠らせるためだ」
「あなたも寝てください」
ロートス・イーターが笑いだす。この男の笑顔をこんな間近で見るのははじめてだった。
「レーナ」
「何ですか」
「……こんなに心地よい生があるのか。美味な食事、美しい水、そしておれから尊厳を奪わぬ女。おれが、おぼれてしまいそうだ」
くつくつとセイレーンの男が笑う。
「今宵はお前を抱きしめて眠ろう。なにも無理強いなどはしない。俺はあの雌どもとはちがう」
「……わかりました」
今度はいつも通り、サイドテーブルに眼鏡を外して置いた。
「……その奇妙な顔飾りはない方がいい」
「眼鏡のことですか」
「メガネ、というのか」
「ないと少し困ってしまいまして」
「ない方がお前の顔が美しく見える」
「……そうなのですか」
34年生きてきたが、素顔の方が美しいなどと言ってくる男が傍らにいた試しは一度もなかった。玲奈の心臓の、よくわからない部分がどうもこそばゆい。
「お前のことが知りたい。お前はなぜおれを助けた。あの騒々しい変な杖と、輝く小さな鏡はなんだ」
「ミラクルステッキとコンパクトには数多くの種類があり、日本中の魔法少女達が使ってきたものと……」
「そうではない。おれは、お前を知りたい」
眼鏡がなくとも見えるほどの近い距離から、まるで海のように青い瞳で凝視され、玲奈が思わず言葉を探す。
「……私を?」
「騒々しい杖を振るい、見も知らぬおれを助けた。それは義務であり、おれをけっして害することのない、変な女だ。お前の言うことを理解できるかはわかりはしないが、おれはお前がお前になった理由を知りたい」
少しぼやける視界の先から、低く美しい声でまるで魔法の呪文のように問いかけられる。
「そうですね……」
魔法少女であり、公務員であること以外には何の変哲もない自分が一体何を語れば良いのだろうか。
そのままぼんやりと、玲奈は意識を過去に向ける。中学2年生だった頃の、忘れ難い一日を。
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