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「ねえ。」
妻の声が頭の上から聞こえて、僕は「ん?」と返す。目線は書類に向けたままだが、それはいつものことなので特別気にすることもなかった。
「私達、それぞれ別の道に進まない?」
職場から持ち帰った書類の文章を追うのに気を取られていて、妻の声をうまく咀嚼することができなかった。
「ねえ。」
しばらく何も言わなかった僕に呆れたのか、もう一度妻は呼びかける。
「ちょっとぐらい待ってくれよ。」
呆れ声に何だかイラっときて、僕の口からも冷たい声が漏れる。すると、大きなため息が聞こえた。
何だよ、わざとらしい。
「何だよ、わざとらしい。」
気が付けば顔を上げ、思ったことをそのまま口に出していた。
妻はそんな僕に冷たい視線を送っていた。愛も情もないような、温もりすら感じない視線。
こっちは仕事中なんだよ、ちょっとぐらい待ってくれよ。
今度は口に出なかった。代わりにごくりと唾を呑んだ。妻の光の無い目が、少し恐ろしく感じたからかもしれない。
「回りくどいのは嫌いだから今度こそはっきり言うわね。私達、離婚しましょう。」
手に持っていた書類が手から滑って机の下に落ちていった。それを拾うことなく、おれは椅子から立ち上がっていた。妻はそんな僕をわざわざ目で追うことはしなかった。
「どういうことだよ。」
胸の中ではとても動揺していたのに、出た声はあまりにも冷たかった。
「そのままの意味よ。離婚するのが私達にとって最善だと思うの。不貞なんて疑わないでね。ただ貴方と別れたくなったの。だって私達、一緒にいる意味が一つもないんだもの。別に、貴方に守ってほしいとか養ってほしいとか夜の方で積極的になってほしいとかじゃないの。貴方といると何にもない。私達、二人で何もしてないから当たり前なんだけど。お互い自分の意見は言わないし、家に帰っても仕事だけだし、一緒にデートに行ったのなんて結婚前が最後よ。記念日だって祝ったことない。貴方が私の誕生日を忘れているみたいだから、私も貴方の誕生日は祝わなかった。それでも貴方は何も言わなかった。そんな私達が夫婦である意味ある?ないわよね。まるでビジネスパートナーみたい。だって、貴方、家事は立派にやってくれるしね。」
いつからその言葉を考えていたのか、妻の口からは川の流れのようにスラスラと言葉が出てくる。僕はそれらを一つ一つ飲み込むのに、長い時間を要した。
まず、妻が言うことは何も間違っていない。
どちらかが守るとか養うとかはありえない、私達はお互い自立した上で支え合っていく夫婦になるの。それは結婚前提の交際を頼んだ僕に頷いた妻が、初めてのデートの日に言ったことだ。
妻の芯はいつだってブレなかった。そこに僕は惹かれた。力強さを感じ、頼りがいを覚え、だからこそ支えて支えられたいと思った。
そういうこと、はあまり好きじゃなかった。それは昔から変わらない、ある種の僕の個性だった。性欲がないと友人に揶揄されるほど、好きじゃなかった。どれだけ好きな妻の身体も、好きだからこそあまり見たくなかった。妻は落ち込む僕に、それでもいいと言ってくれた。子どもが欲しくて貴方と一緒にいるわけじゃない、と。
自分の意見を言うことも好きではなく、得意でもなかった。自分の意見を発することでメリットは思うほど生まれないと考えているからだ。だから、万年平社員と後輩に裏で笑われているのかもしれない。
家に帰っても仕事だけなのは、単に忙しいからだ。給料は上がらないし肩書きだっていつまでもつかないのに、仕事量だけは増えていく。後輩のカバーや上司のサポートもある。会社にいる時間だけではとても手が回らないのだ。けれど、それは妻だって僕と同じだ。課長という冠を頭に乗せている妻は、万年平社員の僕よりも、何倍も忙しい。休日中もずっと自室にこもって仕事している。
一緒にどこか出かけたのは、そうか、もうあの頃が最後なのか。結婚して気恥ずかしくなった、仕事が忙しく時間が取れなかった、家でも一緒にいるのだから一人の時間が欲しかった。どの言い訳も僕の思いには完全に当てはまらず、そのまま口にしても妻だって納得しないだろうと思った。
記念日のことは、今も後悔している。いつもそうなのだ。過ぎた後に思い出す。そして後悔する。忘れないように覚えておこうと決心するが、結局忘れ、次に思い出すのはまた過ぎていった記念日の後なのだ。思い出したその瞬間に妻に伝えることだってできたはずなのに、それをしなかったのはなぜなのだろう。自分への情けなさで心が重くなる。そして思い出す。僕は、僕自身の誕生日も忘れていた、と。
家事は必ず折半だというのは僕から妻に言った。共働きのくせに家事や育児を母に押し付ける父のようにはなりたくなかったのだ。僕も忙しいけれど、妻はもっと忙しい。家事の方は僕が積極的にやらなければ、いつか大変なことになると結婚してすぐに思った。
今日の夕飯のキーマカレーだって僕が作った。台所の簡単な掃除もたまっていた洗濯も僕がした。それを理由に驕るつもりはもちろんない。
一つ一つを噛み砕いて、僕なりの答えを用意してみる。かなりの時間がかかったせいで、大きな沈黙が生まれた。
「僕は、別れたくない。」
掠れた声が出た。もっとはっきり言いたかった。だってこの思いは、どんなものよりも明確なのだから。
「私は別れたい。」
けれど、妻は容赦なく僕の言葉を切り捨てる。
その真っすぐな瞳がとても好きだと、こんな時に思った。今、その目は僕を捉えていないけれど。
「僕は君と一緒にいたい。」
「私は貴方と離れたい。」
「悪かったところ、全部改善するから。」
「私達の相性が悪かっただけよ。貴方はいい人だと思うから、私のために変わろうとしないで。」
「僕は君が好きだ、とても好きだ。」
「夫婦関係は好きだけじゃやっていけないと思うの。」
「・・・・・・じゃあ、君は僕に何を求めているの。」
ようやく妻が僕を見た。切れ長の美しい目に僕が映っている。そして小さな声で何かを言った。妻にしては珍しい細い声だったので、聞き取れなかった。「え?」と聞き返す。
「名前よ。私達、いつから呼び合わなくなったのかしらね。」
息を呑んだ僕から視線をずらして、薬指に光る銀の指輪を彼女は外す。
「今までありがとう。」
それだけ言って立ち上がった彼女は、自分の部屋へ戻っていく。バタンと扉が閉まり、ガチャリと鍵がかかった音が聞こえた。
僕の左手にも、机の上で照明に照らされる指輪と同じものがある。
僕の指輪は彼女が、彼女の指輪は僕が買った。
身体から力が抜けて、僕の尻がクッションに着地する。
『春日部日向さん。温かい、素敵なお名前ですね。』
歯医者で財布に戻そうとして指の隙間から抜け落ちた保険証を拾ってくれたのは彼女だった。
『念のため。私は夏川海です。決して怪しい者ではありません。』
そう言いながら彼女は笑って、僕もつられて笑った。
ああ、そうだ。彼女の声は、こんな風にとても柔らかく優しかった。
その瞬間、僕は恋に落ちて、面倒だと感じていた歯医者の定期健診もその瞬間に面倒ではなくなって、次の来院が待ち遠しくなり、彼女と時間が重なっていたらいいなあと思った。
そんな彼女に、あんなに乾いた声を出させたのは、光をなくした瞳にさせたのは、紛れもない僕だ。
広がった書類の上に崩れた上半身を放った。
しばらくそうしていると、鼻の奥がツーンと痛くなって、涙が流れた。書類の上にシミができて広がっていく。
知らない間に鍵が取り付けられていた彼女の部屋はとても遠く、僕は広い砂漠に一人取り残されたような、そんな気になって、拭うことも止めることもなく涙を流し続けた。
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