0人が本棚に入れています
本棚に追加
紗凪(さな)は、マンションの外廊下を足早に歩いていた。何かに追われているわけでも、特別急いでいるわけでもない。ただ、元々歩くのが速いだけだ。
かっ、かっ、かっ、と5センチほどのピンヒールが高い音を立てる。一定のリズムを刻んでいたが、ふと音が止んだ。紗凪が、足を止めたのだ。
誰かに後ろから呼ばれた、気がした。しかも、聞き覚えのある声だ。
まさか、と思いながら、紗凪は息を整え、一気に振り返った。
「どうして…」
思わず呟いていた。
その顔は、血の気が完全に引いていて蒼白。それだけで、彼がこの世のものでないことがはっきりと分かった。
「紗凪、会いたかったよ」
柔和な笑顔で、彼−−智貴(ともき)が言った。
その表情は、生きていた頃とまるで変わらなかった。
智貴が死んだのは、半年程前だ。住んでいるマンションの階段から落ち、頭を強く打ったことによる事故死として処理された。突然の訃報だった。
「紗凪、引っ越したんだね」
部屋に入るなり、智貴が言った。きょろきょろと、室内を見渡している。
「うん、まぁ」
紗凪は、曖昧に頷いた。
外で話すわけにいかず部屋に招いたが、未だに信じられない。
智貴が、ユーレイになって会いに来たのだ。
霊感なんてないはずなのに、と紗凪は無意識に唇を噛んでいた。
信じがたいが、事実である。蒼白な顔と、全体的にうっすら透けている身体が、彼がこの世のものでないことを物語っている。
「…驚いた?」
まじまじと見つめる紗凪の視線に気がついた智貴が、バツが悪そうに頬をかいた。
「うん…私の新しい家も、知ってたの?ユーレイだから?」
ユーレイにそんな特殊能力があるのか?と思いつつ紗凪が聞くと、智貴は一瞬目を丸くしてから、ふにゃっと笑った。
そういえば、付き合う前はこの笑い方が可愛くて好きだったな、と紗凪は思い出していた。胸の奥のほうをぐっと掴まれるような、妙な感覚になる。少し、息苦しい。
「ユーレイ自体よりも、そこに驚いたの?相変わらず紗凪は面白いね」
一度言葉を切り、智貴が言葉を続ける。
「ふと気づいたら、住んでたマンションの階段にいたんだ。なぜそこにいるのか分からなくて、自分の部屋に行こうとした。そしたら、ドアのノブが掴めないことに気づいた。通りかかったマンションの住人に話しかけたけど、誰も振り返らない。シカトされる。しばらくそこにいて、やっと、自分がおそらく死んでユーレイになったことに気づいた。それで、紗凪が心配で会いたくなって。アパート行ったけど、住んでる気配がなくなってた。だから、会社前で出待ちして、ここを突き止めた」
「なんか、ストーカーみたいだけど」
つい突っ込む。智貴の表情が一瞬止まった。
あ、ヤバい、と紗凪は思った。けれど、智貴はすぐに表情を崩した。
「あはは、確かに。でも、とりあえず、会えてよかったよ。元気そうだね、紗凪」
智貴が、真顔でこちらを見据えてくる。紗凪は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「私…は……」
声が掠れる。舌がうまく回らない。胃がきりきりと痛む。いや、これは胃じゃなくて、腹の表面にできたあの痣だろうか。
もう完治したはずなのに、紗凪の全身に恐怖と痛みが鮮明に蘇ってくる。
不意に、涙がこぼれそうになった。反射的に、慌てて手の甲で拭う。
「ごめん」
くぐもった声が近くから聞こえて、紗凪はようやく気がついた。いつの間にか智貴が、紗凪を抱き締めるような体勢になっていることに。
ユーレイで実体がないため、もちろん感覚はない。ただ、そういう体勢をしていることは分かった。
「いきなりいなくなってごめんな。一人にしてごめん。寂しかったよな」
優しげな声で智貴が囁いた。
紗凪は、咄嗟に声が出せなかった。ごくん、と口内のありったけのツバを飲み込み、ようやく声が出せた。
「事故のこと、覚えてるの…?」
「いや、はっきりは覚えてない。マンションの階段から落ちて頭を思い切り打ったような…くらいで。それで俺、死んだんだろ?」
智貴が紗凪の顔を覗き込んだ。紗凪は、無言で頷いた。
「まさか、そんなあっさり死んじまうなんてなー」
悲しげに、智貴が笑った。
「たぶんさ、紗凪のこと心配でユーレイになったんだよね、俺」
「心配…」
「そう。紗凪、俺がいないと何もできないじゃん?だから心配で。たぶん紗凪が一人でもちゃんと生きていけることがわかったら、成仏できると思うんだよね」
「それは…私は何をすればいいの?」
「ほら、そういうところ。何でも俺に答えを求めるでしょ?そういうのが無くなって、ちゃんと自立した女性になったのを見届ければ、成仏できるんじゃないかな」
紗凪は言葉に詰まる。先程こぼれた涙はすっかり渇きはて、今はそれよりも嫌な冷や汗が額に浮いているのを感じていた。不快だった。
智貴が、紗凪に満面の笑顔を向けた。
「だから、紗凪は普通に暮らしてて。俺はそれを見守りつつ助言して、紗凪を立派な自立した女性にする手助けをするから。それで、成仏できるのを待つよ」
「忘れ物ない?気をつけて、いってらっしゃーい」
笑みを浮かべて大きく手を振る智貴に、玄関で見送られる。
私も、できるだけ自然な笑みを浮かべるよう努力して、意識して表情筋を動かす。それから、いってきます、と軽く手を振り玄関の扉を閉めた。
マンションの外廊下を足早に進むと、ヒールのないフラットシューズが、たん、たん、たん、と足音を刻んだ。最近はピンヒールを履くことが多かったから、それに比べると迫力がない鈍い音に聞こえる。
ヒール、履きたいな。
でも、智貴に何を言われるか分からない。怖い。
唇を噛んでいることに気づいたのは、口の中にうっすらと血の味がしてからだった。
駅にたどり着き、ホームで人混みに紛れて電車を待った。痴漢が多いと言われる路線で、女性専用車両に乗るようにしているので、周りは女性ばかりだ。
前に並んでいる、自分と同じく会社勤め風の女性にふと目を奪われる。身長が低めなので、つむじがよく見えた。
私は身長166センチあるので、女性ばかりの人混みだと、目立ってしまうことが多かった。
「俺のほうが低く見えるとカッコ悪いから、ヒールは履かないでくれる?」
智貴と付き合いたての頃、身長約170センチの智貴が、私に言った。
少し恥ずかしそうに言う彼は、可愛かった。
そういうことを気にする人だと思っていなかったので意外だったが、私は特に議論もせず、わかった、とあっさり返答した。
ヒールの靴は、勤務中に履けばいい。智貴は大学時代の共通の友人を通して知り合ったので、職場は違う。だから、それで問題ない。
そう思っていた。
「急なんだけど、今日ご飯食べに行かない?」
昼休憩中にスマホを見ると、智貴からメッセージがきていた。特に用事がなかったので、いいよ、と返信する。智貴と付き合い始めて2ヶ月が過ぎた頃だった。
仕事終わりに、智貴の家の最寄り駅で待ち合わせをした。
「金曜日の夜だし、泊まっていきなよ」
と智貴が言うので、会社近くで着替えの下着等お泊りに必要そうなものを揃えてから、智貴との待ち合わせに向かった。
その日会った瞬間から、智貴の様子は少しおかしかった。でも、私は金曜日の夜に彼氏の家にお泊り、という最高のシチュエーションに浮かれていて、気づいていなかった。
彼の部屋に入って靴を脱いだ途端、私の体は床に倒れ込んでいた。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。膝の裏側を、強く押された感覚があった。どうやら膝カックンのような形で、しかし膝カックンのような優しさはまったくない力加減で、智貴が私の右膝裏あたりを蹴ったらしい。
反射的に飛び出した腕によって頭と顔は守られたが、肘と膝を思い切り硬いフローリングに打ち付けた。
いたっ、と声を上げていた。すると、智貴が倒れた私を引き起こした。腕ではなく、前髪を鷲掴みにして。
「何で約束を守れない?」
いつもの彼と違う、鬼の形相をした彼が、そこにはいた。
「ヒールは履くなって言っただろ!」
声を荒らげ、髪を強く握りしめられる。いたい!と叫んだが、力は緩まない。
頭が働かない。智貴が何を言っているのか、何に怒っているのか、分からなかった。
ただ恐ろしくて、怖くて、必死に、ごめんなさい、もうしません、と何度も何度も泣きながら謝った。自分が悪いのだと思った。でなければ、あの温和な智貴が、こんなに怒るはずがない。
私はこのとき、初手を間違えた。謝るのではなく、彼の暴行から逃げ、第三者に助けを求めるべきだった。警察を呼ぶべきだった。
けれど、唐突なことへの驚きと恐怖と、彼のことを好きな気持ちが綯い交ぜになり混乱し、私は智貴を受け入れてしまった。
ひとしきり私を詰り、殴ったり蹴ったりし終えると、智貴は部屋から出ていき、マンションの階段前でタバコを吸った。ヘビースモーカーというわけではない。自分を落ち着かせるための儀式のようだった。その証拠に、私は智貴がタバコを吸う姿を、その時にしか見たことがない。
タバコを一本吸い終えると、部屋に戻ってくる。そして、
「怪我、大丈夫?ごめん、気が昂ぶると俺、いつもこうなんだ。本当にごめんね」
と優しく抱きしめてきた。そして、怪我の手当をしてくる。
智貴は、普段は優しく穏やかに見えた。しかし、一度怒りのスイッチが入ると、止められなかった。
その出来事の後も、何か彼の琴線に触れると、私を詰り、言葉だけではおさまらないときは、彼の気が済むまで、殴られたり蹴られたりした。
反論したり抵抗すると、火に油を注ぐ。
耐えるしかなかった。この人はきっと弱い人だから、仕方ないんだ。私がいけないんだ。だって、彼がいないと私は生きていけない。そう、彼が言っていた。
今思えば、まるで宗教のように、洗脳されかけていたのだろう。恐ろしくて、自分で考えることを拒否していた。
付き合って半年後、私の体は至るところに痣や切り傷ができていた。が、不幸中の幸いか、智貴の理性のおかげが、顔や服から出ている目につく部分に痣や傷はなく、洋服さえ着ていれば、私は一見普通の人に見えていた。
智貴と付き合って一年が経とうとしていたとき、また智貴に殴られた。何が原因だっただろう。手料理が不味かったとか、職場の上司の話が気に食わなかったとか、そんなところだったと思う。
腹部で、かなり痛かった。胃の内容物が上がってきそうになる。が、ここで吐いたりすればますます怒りを冗長してしまう。
私は唇を噛み締めて必死に耐えていた。
涙がこぼれる。そして私は、つい声を漏らしてしまった。
別れたい、と。
言ってから、殺される、と思った。怖くて顔を上げられない。
智貴が、私を見下ろしているのが分かった。それから、しゃがみ込む。私の髪…ではなく、頬を掌で優しく包み込み、俯いていた顔を持ち上げられる。
目の前にあるのは、柔和に微笑む智貴の顔だった。
「無理だよ。紗凪は、俺じゃないとだめだよ。何も決められない、一人じゃ何もできない。分からないの?今までずっとそうだったでしょ」
それから、智貴がいかに私がダメなのかを語り出した。聞きたくないのに、耳に入ってくる。
やめて、やめてよ。
「わかった?紗凪が悪いんだから、ちゃんと反省してね」
最後にそれだけ言うと、智貴が部屋から出ていった。
私だけ取り残される。ぼんやり顔をあげると、姿見が目に入った。ちょうど、私の姿が映っていた。
髪はぼさぼさ、服もだらしなく乱れ、乱れた衣服の隙間から覗いた太腿には、痣がいくつもあった。化粧もろくにしていないので、顔色も悪く肌も荒れていて、お世辞にも綺麗とはいえない。
社会人になって、お金を稼ぐようになって、かっこよく仕事をする女性に憧れてピンヒールを買った。あくまで見た目からでも、真似をしていれば、そうなれるかもしれないと思った。
ピンヒールは慣れるまで大変だったが、ようやく慣れてきたところだった。なのに、もう一年近く履けていない。鏡の中にいる私は、憧れていた私からは程遠い。
嫌だ、と叫んでいた。声に出していたのか、心の中で叫んでいたのか、もう分からなかった。
気づくと、部屋の外にいた。タバコの香りがした。倒れた智貴の姿が、階段の下の方に見えた。妙な方向に曲がった足が見える。
私は、おかしいくらい冷静だった。智貴の部屋に戻り、自分の荷物をまとめて部屋から出た。
驚いたような表情のまま、智貴は絶命していた。一瞥して、転がった智貴と、彼から流れた赤い血を踏まぬよう、足早に階段を下りた。
ああ、これで自由だ。
鼻歌交じりに、自分のアパートへの帰路を辿った。
なぜ、今になって、今更になって、ユーレイとしてやって来るのか。しかも、あのときのことを覚えていないようだ。
たかがユーレイ。されど、ユーレイ。さて、どうやって成仏させてやろうか。私が犯人だと気づかせないまま、二度と私の前に現れさせないために、どうするか。早く、消さなければ。
無意識に、また唇を噛み締めていた。血の味が、より一層口内に広がった。
「いってきます」
紗凪が、俺に向かって微笑んだ。どこかぎこちなく、硬い表情だった。
玄関のドアが閉まる。足音が、遠ざかっていく。
気づいてるよ、全部。覚えてるよ、全部。だから、ここに来たんだ。
つい、ふふ、と笑い声が漏れていた。
また、会えたね。嬉しいよ。
最初のコメントを投稿しよう!