10 昏い渇望

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10 昏い渇望

 オリヴィエが長く細い指先で愛おしそうに真珠を撫ぜる。その姿にレヴィアタンの胸はまたぎゅっと両手で握りつぶされたように切なさを訴えてきた。  今はレヴィアタンだけの可愛い弟であるオリヴィエも、いつかは彼が心の底から愛する人と必ず結ばれる。真珠はきっとそれを応援してくれるのだろう。  そんな弟の成長をレヴィアタンは寂しく感じる。そして寂しいだけでは片づけられぬ、胸の中に広がるもやっとした感情をまた味わうのだ。  先日荒れ狂う狼族の男たちを前に感じたのは、自分のものに手を出されたという鮮烈な怒り、そして蹴散らして我が身に奪い返した時の高揚感。  溢れて抑えることが苦しかった、このままあの塔に誰の目にも触れさせずに弟を閉じ込めておけたらどんなにいいかという昏い渇望。 (オリヴィエ。お前を誰にも触れさせずに、俺だけのものにしてしまいたい)  その衝動は今になって始まったものではない。自分でもどうしてこんなにも実の弟に執着してしまうのかと恐ろしく思うこともあるが、物心ついた時からごく自然と浮かぶ馴染みの或る感情にも思えた。 「またぼんやりしてる。きりっとしたお顔をしたら誰より凛々しいくて素敵なのに」  でも、兄さまのよさは僕だけが知っていればいいから、よいのだけど。  などとオリヴィエが小さく呟いたが、その蕾のように可憐な唇を再び、奪い我が腕に弟をかき抱きたくなる幻想に囚われていたレヴィアタンの耳には入らなかった。 「それでね。兄さまも覚えてると思うんだけど。お母さまが亡くなった年だったかなあ、壁から床まで全部紫色の不思議なお部屋に入ったでしょう? 覚えてないかなあ? 綺麗な女の人がいて遊んでもらったの」 「ああ、覚えている」  その部屋に辿り着いた時も、今のような砂嵐の時期だった。  二人で場内を探検している最中に、濃紫色に金色の蝙蝠の羽根のレリーフが付けられた扉がふいに目の前に現れた。中には女性が一人きりでいて、彼女は魔界きっての美形揃いの一族に生まれた二人の目を通してみても、なお存分に美しく、妖艶な雰囲気を漂わせていた。  豊かな胸に折れそうに搾り上げられた腰、薄紫色の長い髪と同じ色の瞳。角と羽根はしまわれていたのか見当たらなかったが、滴るような色気と気配は確かに魔族だった。  部屋の奥には妖精の羽のような光沢を帯びた天幕が掛かる大きな寝台があった。  沢山の美味しいお菓子や薄桃色に輝く飲み物を彼女が用意してくれて、食い意地が張っているレヴィアタンは飲み食いしているうちに身体がポカポカしてきてその寝台で眠くなってしまった。気がつくと傍らでオリヴィエもレヴィアタンに抱き着くようにしてよく眠っていたので、レヴィアタンは弟を起こさずにおぶって部屋を出た。  出がけに彼女が「大人になったらまたいらっしゃいね」と耳元で艶っぽい声で囁いてきて、うっとりするような笑顔で微笑んだが、今をもってどういう意味だったのかさっぱりよく分からない。  そもそも彼女が何者だったのか。大きくなってから考えたのだが、多分あれは父王の愛人の一人だったのではないかと思う。今となってはよくわからない。あの後何度か探しに行ったけれど部屋は見つからなかったのだ。 「僕ね、あの部屋に忘れ物をしてきてるの」 「忘れ物? 何を?」  今までそんな話を聞いたことがなかったのに、と口に出さずに思ったが、オリヴィエだけ感情が顔に出にくいレヴィアタンの機微に敏感なため、むうっと唇を尖らせた。 「この間、思い出したの」  オリヴィエは細く形の良い眉を顰め記憶を探るような顔をして、ため息を一つついた。 「よく思い出せないけど、大切なものだった気がする」  大事な弟がそんな風に言っているのだから、兄としては憂いを晴らしてあげたいと思うところだ。当然レヴィアタンは即答した。 「そうか。じゃあ、探しに行くか」  途端にぱあっと顔を輝かせたオリヴィエの脇に手を入れて、レヴィアタンは幼子のように驚く彼をひょいっと持ち上げる。 「あっ!」  抱き上げた拍子に取り落した万年筆がオリヴィエが取り組んでいた課題のレポートに青いシミを作った。 「兄さま、指にインクがついちゃったから、触らないで。汚れてしまう」  オリヴィエの白い中指も青いインクが漏れて青く染まっていた。抱き上げられたオリヴィエは兄から離れようと一瞬背を反らすが、バランスを崩した弟の手をレヴィアタンはしっかりと握りしめた。 「危ないぞ」  オリヴィエが哀しそうに睫毛を伏せて、兄の褐色の指先についた青い汚れを見つめる。 「ほら、兄さまも汚れちゃった」 「なんだこのくらい気にするな。お前につけられた汚れなら気にならん。このシミすら可愛いものだ」  レヴィアタンは魔族にしては珍しく、燦燦と日差しを浴びてよく育った向日葵のような、にかっと明るい笑顔を弟に惜しみなく向けた。 「兄さま、大好きだよ」 「ああ、俺も大好きだ」  その顔を見て弟は嬉し気に頬を染めると、小鳥が啄むようにレヴィアタンの頬に柔らかな唇を押し当てくる。 「……本当に、大好きなの」  切なげな声と熱い吐息がレヴィアタンの尖った耳をくすぐる。オリヴィエは兄を月下に咲く薔薇のように静かな笑顔で見つめた後、レヴィアタンの筋肉が肩から盛り上がった太い首にぎゅっと腕を巻き付け肩口に顔を埋めてきた。
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