第二話 神さまの贈りもの

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 運転席の後ろ頭に視線をやる。 「史龍先生、言ってたな。弟夫婦は雨の日にスリップしたトラックに突っ込まれて亡くなったんだって」 「そうねぇ。それもあってかあの人、車が嫌いだものね。迎えに行くのはいいけど、この雨のなか大人しく車に乗ってくれるかしら?」 「嫌がったらノしてたたんで後部座席にブチ込むだけだろ」  なんて? ノしてたたんで?  ぎょっとする僕をよそに、苑爾さんは慣れた様子で肩を竦めた。 「あんたその物騒な発想どうにかならないの?」 「已むを得んだろ。女のためだぜ」  赤金さんの声音は恐ろしいほど真剣である。  頼みの綱の苑爾さんが「まあそれもそうね」と嘯いてしまったので僕はがくりと項垂れた。こっそり胸の前で両手を組んで大真面目に祈る。  ──史龍先生。お願いだから大人しく車に乗ってください。  赤金さんの物騒な覚悟や僕の心底からの祈りとは裏腹に、一時間後、無事に榛原駅で合流した史龍先生は躊躇なく車に乗り込んでくれた。 「光舟から連絡はきていたが、まさか本当に迎えに来るとはね」  僕の隣で深くシートに沈み込んだ史龍先生は、どこか疲れているように見える。  朝早くに出かけて取材で歩き回り、いざ帰ろうと思ったら人身事故で運転取り止め、タクシーやバスで動こうにも考えることは皆同じだしそもそも車に乗りたくない、さてどうするかといったところで大家さんから連絡が入ったらしい。  深く息を吐いた彼に、ペットボトルのお茶を手渡した。大家さんからもらったものの、結局緊張して口をつけられないままだったのだ。 「うちのみらい屋さんが、この三人で車に乗ってる未来を視たって言うものですから。これはもう赤金を動員して先生をお迎えに参上するしかないと思ったんですよ」  苑爾さんは後部座席を振り返り、ぱちこん、とウインクを寄越した。  大阪東部でしつこく降り続いていた雨は、山を越えて奈良県に入ったところで、嘘のようにやんだ。  厚い雲のかかる空の下を駆け抜け、榛原駅に到着した頃には快晴。とはいえここから大阪に戻ることになるので、また雨雲に向かって行かなければならない。 「開会には間に合うかしら?」 「高速使ったけど、雨であんまスピード出さなかったからなあ。余裕ねえかも」  カーナビに目的地としていとゆう荘を設定すると、到着予定時刻はぎりぎり六時前だった。  念には念を入れて道路交通情報を検索していた苑爾さんが目を丸くする。 「八束トンネル付近、落石通行止め、人的被害なし……ですって」  差し出された画面と史龍先生とともに覗き込むと、八束山道に赤い×印がついていた。  視えた未来を回避してしまったことになる。  ……回避、できるものなのか。  今まで視えた未来は当たり前に実現するものだったから、なんだか不思議で、あまりにあっさりしすぎていて現実味がない。 「おー、ドンピシャだな。忍に言われなきゃがっつり渋滞に捉まってたわ」 「よかった。無事にみんな揃ってパーティーができそうね」  よかった、のだろうか。  ──本当に?  これまで僕は視えた未来に対する回避行動をとることはしなかった。  そこまでの行為は赦されていないような気がしていたし、そこまでの権利も力も実際なく、変わってしまった未来への責任がとれないから。  どうせ回避しないなら、そのまま現実になるなら、視えたって言わないほうがいい。  子どものころは調子に乗って吹聴した時分もあったが、中学生になって以降は、視たものを誰かに話すこともなくなった。  それなのに今回、口に出してしまった。  社長のためと言えば聞こえはいいけれど、実際は、史龍先生が間に合えなくて彼女が悲しい思いをするところを、僕が見ていられないと思っただけだ。 「で、でも僕が視たのは、本当にその『画』だけだから。……パーティーが無事にできるかどうかまでは、わからないんです。すみません」  八束山道での通行止めを回避した。これが今後、どんな影響になるのか、ならないのか。  もしも取り返しのつかないような変化を及ぼしたら。  途端に背筋を貫いた怯懦に、体が震えた。 「大丈夫よぉ、あとは赤金の運転の責任なんだから。安全運転しなさいよ」 「へーへーわかってますよ。人使いの荒いやつだわマジで」  楽観的な二人の会話がどこか遠くに聞こえる。膝の上に握りしめた拳からは、血の気が引いていた。  到着予定は六時前。  普通に帰れば間に合うけれど、いまこのルートは僕のせいで『普通』を外れた。  回避した未来のツケがいつどんな形になって返ってくるかもわからない。手が、唇が、体が震える。  するとお茶を飲んで一息ついた史龍先生が、静かに口を開いた。 「──弟夫婦が事故で亡くなる、二年前に」  はっと顔を上げる。  彼の視線は窓の外の街並みに向いていた。 「けんか別れを……したのだ。歳の離れた弟で、私が育てたようなものだった。ある日、一歳の娘を連れた女性と結婚すると言い出して大げんかになった。何もかも早すぎると思ってな」 「え……じゃあ、琴子社長って」 「そうだね。私とは一切、血縁関係がない。──弟には私以外の家族がなく、結婚相手の女性もまた親類との縁に薄いひとだった。事故があったのは四年前。警察から報せを受けて向かったところ、三歳になった琴子が一人、生き残っていた」  途方に暮れた、と史龍先生は苦笑いを浮かべた。  施設に預けることもできたし、史龍先生も当然そうするべきだと考えた。けれど慌ただしい日々を過ごすうち、いつしか琴子社長は史龍先生の指を握ったまま放さなくなっていた。 「神が……」史龍先生が、掌で顔を覆う。 「──実在するかもわからない曖昧な概念としての『神』が、最後に私に遺した宝なのだと思った」  一人ぼっちで残された者どうし、穏やかに生きていくのも悪くない。  そう思ったという。 「ただ、三歳の娘を一人で育てるのも難しいとは解っていた。私には妻がいないが、女性には女性にしか教えてあげられないことがあるだろう。どうしたものかと思って、琴子を抱いて散歩していたところ、いとゆう荘に辿り着いたのだ」  前庭でさわさわと揺れる紅葉が、赤い絨毯のように降り積もる秋のことだった。  庭先で落葉を掃除していた大家さんが「こんにちは」と声をかけて、史龍先生は「素敵なアパートですね」といとゆう荘を見上げた。 「住むならこんなところがいい、と素直に思えた。当時は都心のど真ん中に住んでいたからな」 「……都心?」 「そうだ。弟たちの葬儀が終わったあと、琴子を連れて一旦都心のマンションに戻ったんだ。それで、歩いて小一時間ほど散歩していたら、大阪府鹿嶋市のいとゆう荘にいた」  それは……。いや、でも、何が起きてもおかしくない。あのアパートなら。  いつの間にか前席の二人も静かになっていて、車内には穏やかなジャズが流れている。 「私の頭がおかしいと思うかな?」  史龍先生は穏やかに微笑んだ。  僕はなんだか泣きたい気持ちで、いいえと首を横に振る。いいえ、ちっとも。 「いとゆう荘の住所を聞いて驚いた私に光舟はこう答えた。『あなたがたは、ここを求めていたんでしょうね。そしてこの場所があなたがたを導いた』と、あの胡散臭い笑顔と関西弁で」  それは、従兄が僕に、いとゆう荘を紹介したときの言葉に似ていた。  都心で散歩していたら大阪へ──突拍子もない話のはずなのに、史龍先生は当たり前の出来事を語るような声音だった。  いとゆう荘の住民である苑爾さんや僕は当然としても、何か異能があるというわけではないはずの赤金さんまで、平然とした様子で耳を傾けている。  いとゆう荘はそういう場所なのだ。
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