第一話 神さまの思し召し

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 そこにはグレーのスーツを着た女性が立っていた。  すらりと長い手足をしていて、ハンサムショートの髪型と切れ長の双眸がややきつそうな印象を与える。年齢と性別からして恐らく、二〇三の住人だ。 「みさおちゃん、おかえり!」 「社長ただいまー。なに、この子が例の?」 「そうだ! 二〇一号室のまつゆきしのぶだ! 春からえんじと同じ大学の一年生だ!」  全部言われた。いいけど。  僕がそう思ったのが顔に出たのか、女性はぶっと噴き出した。そうやって笑うと、第一印象よりずいぶんと幼くなる。 「私、二〇三の時任美沙緒。よろしく、忍くん」 「よろしくお願いします」  流れで三人一緒に食堂に入ると、大家さんが飲み物を用意してくれていた。  社長と僕にはミックスジュース。窓越しに帰宅が見えたという美沙緒さんにはホットオレ。  琉球ガラスらしきロックグラスになみなみ注がれたミックスジュースは、わざわざミキサーにかけて一から作ったみたいだ。果物の種の粒が浮いている。こんな豪華なジュースは初めてだ。 「……あ、おいしい」  贅沢に甘くて、でもしつこくない。少しどろっとしているけど飲みやすい。まるでお店で出されるような味だ。  ちょっと感動している僕を見て、美沙緒さんはソファの背凭れにぐでっと溶け込む。 「えぇなぁ。光舟さぁん私もミックスジュース飲みたい」 「すまーん、フルーツ缶さっきので終わってもた」 「なんですってぇ?」  と一旦文句をつけつつ、「ないもんはしゃーない」と一人で納得して美沙緒さんはホットオレを口に運んだ。 「忍くん、さっき到着したばっかなんやろ。とりあえず寝床だけは確保しときや。生活用品はちゃんと用意してる? トイレットペーパーとか、シャンプーリンス系、まあ困ったら光舟さんか苑爾んとこ駆け込めばどうにかなるやろうけど」 「あ……あとで買いに行こうかと」 「忍くんが嫌じゃないんやったら、近所の案内がてら一緒に行きましょ。いとゆう荘は食事の確保がないからずいぶん楽やけど、やっぱ最初は人手もいるやろうし」 「ことこも買い物行きたい!」 「あかーん。社長は史龍先生に『あゆみ』見せに帰らなアカンで」 「ぐっ」  痛いところを突かれたらしい社長が、彼女用にミックスジュースに刺さっていたストローを噛んだ。胸を押さえてよろよろ倒れ込む真似までする。芸が細かい。  ……そんなに成績が悪いんだろうか。  美沙緒さんはスーツを着替えてくるといって自室に戻り、社長は『あゆみ』を見せねばならぬとしわくちゃの顔で置きっ放しだったランドセルを背負った。とりあえず僕も一度、部屋に戻ることにする。  お洒落な手摺のついたレトロかつ急勾配の階段を上がり、上ってすぐ横のドアを開けた。  床の色と材質で区切られた三和土にスニーカーを脱ぐ。  短い廊下の先のドアを開けると、八畳ほどの部屋に段ボールが積み重なっている。  大家さんの計らいで入居前から荷物を受け取ってくれていたので、地元の家電量販店で購入した家具などはすでに一揃いしていた。取り付けの必要な家電はもう設置されている。今のところ何から何まで大家さんにお世話になりっぱなしだ。  まだまだ物の少ない無機質な部屋を見渡して、僕は小さく深呼吸した。 「……とりあえず、寝床の確保」  一人暮らしの先輩の助言を反芻し、準備に取り掛かる。  折り畳み式のベッドだけど、今から組み立てるのはさすがにくたびれそうだ。マットレスと掛布団だけ出しておけば今夜くらい乗り切れるかな。壁際に立てかけてあった布団の箱を部屋の真ん中まで引き摺って、テープを剥がしていく。ゴミを捨てる場所がないことにそこで気付いた。  空いたスペースにマットレスをぽんと置いて寝るスペースを確保すると、まだ昼下がりだというのにどっと疲労感に襲われた。  思わず倒れ込み、新品の布団の匂いを嗅ぐ。  知らない匂い。  一人きりの部屋の静けさ。  実家で暮らしていた頃から静寂には慣れていたけど、家族が住んでいて一人なのと、一人の部屋でちゃんと一人なのは全く別だ。実家にいるときはいつも、罪悪感と気まずさでいっぱいだった。社長から『みらい屋さん』などと呼ばれる特異な力のせいで、家族との折り合いは最悪だったから。 「やっと……ひとりになれたなぁ……」  今日からここが僕の家。  新生活だけど、テレビやネットで喧しく宣伝されるような、希望に満ち溢れた胸の高鳴りなんて一切ない。  きりきりと引き絞っていた弓矢をようやく下ろしたような安堵。 「隣の音、全然聞こえないな」  二〇二と接する壁をなんとなしに見やって、体を起こす。社長は今頃、通知表を史龍さんに見せているのだろうか。あんなに嫌がるなんてどんな評価だったんだろう。  段ボールに蹴躓きながら窓際へ向かい、閉めたままだったカーテンを開ける。深い夜空の色をしたカーテンは、前の入居者の銀水さんというひとがそのまま残していったものらしい。  開けた窓から春の風が吹き込み、カーテンをまるく膨らませる。 「空気のにおいが違う……」  窓の外には、室外機を置くためだけの小さなベランダがあった。  下のほうを見下ろしてみると、建物の脇には通路のようなものがあって、丸くて白い飛び石が置いてある。裏口につながっているようだ。  外周を囲う青銅の柵の向こうにはお隣の民家が見えていた。かなり立派な洋館だ。  しばらくそうして辺りを見渡していると、ごんごんごん、と玄関ドアをノックする音が聞こえてきた。ここの住人たちはインターホンを知らないのか? 「忍くーん! どう、出かける準備できた?」と美沙緒さん、 「忍くーん、ねぇカラーボックス要らない?」と、いつの間に帰ってきたのか苑爾さん。  ごんごんノックしたり大声で呼んだりしても、みんな知り合い同士だから気にする人もいないのか。険悪なご近所トラブルに発展する心配はなさそうだから、それはいいことだけれど。  顔を出してみると、苑爾さんは片手に白い二段のカラーボックスを持っていた。 「苑爾さん、赤金さんのお手伝いに行ったんじゃなかったんですか」 「それがねぇ、行ってみたらもう助っ人が何人か来てたから、引き揚げてきたのよ。あいつ顔だけは無駄に広いし、よくわかんないけど後輩に慕われてるから」 「赤金なんかあったん?」  そう訊ねた美沙緒さんは、柔らかいグリーンのブラウスに黒のスキニーという恰好になっていた。 「窓全開で外出してたら上の部屋が火事になって、消火活動で窓際びしゃんこ」 「うっわ災難。悪運の塊みたいなやつやのに、珍しく被害受けたんやね」 「片付くまであたしの部屋に居候するから慰めてやってね。──とまぁそういう事情で人手が足りてたからあとは後輩に任せて、サークルの本部に顔出してみたら、キャンパス移動で引っ越すことになったメンバーが置いていった家具を押し付けられちゃって。どうかしら?」  苑爾さんはにこにこしながらカラーボックスを掲げて、「要らなかったら赤金の家に放り込んでくるわ」と首を斜めにする。  自分の顔のよさを引き立てる最も美しい角度を知っている人間の仕草だ。  でも嫌みったらしくないのは、やさしい(やさしい?)口調のせいだろう。  インテリアにはこだわりがないので、遠慮なく貰い受けることにした。 「家具の組み立てとか一人じゃ大変でしょ。手伝うわよぉ」 「遠慮せずこき使いや。こいつなよなよして見えるけど、そういうの上手いで」 「あ、はい、じゃあ明日から、お手すきなら」 「オッケー。任せて」苑爾さんは流れるようにウインクをした。アイドルや俳優以外でこんなにも様になるウインクを目撃するのは初めてである。 「さてそれじゃ、お買い物に行きましょうか!」 「なに苑爾も行くん?」 「お引っ越しでくたくたの忍くんと年度末でへろへろの美沙緒ちゃんで出掛けたら、重たいもの持てないでしょ。荷物持ちしちゃうわ」 「ほんなら丁度いいし米でも買おか。片手に十キロずつ持てるやろ?」 「やだわぁ美沙緒ちゃんたら容赦ないんだから。あたし箸より重いもの持てなぁい」 「役に立てへん荷物持ちやな」  というかさっき箸より重いカラーボックスを片手に軽々持ってませんでしたか?  突っ込みたい気持ちはあったが、苑爾さんと美沙緒さんの会話に口を挟む隙がない。なんというか会話のテンポが速いのだ。大阪だから?
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