壱 〜男、昼は店主、夜は処刑人〜

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壱 〜男、昼は店主、夜は処刑人〜

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 天保七年、如月。将軍徳川家斉のお膝元である江戸に、今日も平屋造の一軒の茶屋が、藍色の暖簾を掲げた。 茶屋の名は”福地屋”。 ”福地屋”の店主のもとには、毎日江戸の各所から人が集まる。 旅人や人足、飛脚に駕籠かき。 店主の作るみたらし団子が有名で、それ目当ての客もいるほどだった。 「…いらっしゃい。注文は?」 店主の名は、燎火といった。 燎火には一つだけ、誰にも言えぬような秘密を持っていた。 "人殺し"である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 夜。人も途絶え、喧騒で溢れる江戸が静まり返った丑三つ刻。 福地屋の奥、戸の向こうには、木製の縦長の箱が置かれている。 何重にも鍵が掛けられ、鎖まで巻かれたその箱は、如何にも曰く付きの、重々しい雰囲気を醸し出している。 月光も届かぬ中、店主は鎖を解き、銀色の鍵、真鍮色の鍵と、様々な鍵を幾つも使って錠前を開けていく。 ガチャン、ガチャンと、最後の錠前を開け、箱を開けた。 中には、銃が一丁、収められていた。 燎火はそれを手に取り、縦長の箱の、横の箪笥から火薬と鉛玉を取り出す。 弾と火薬を筒の先から棒で詰め、いつでも弾を放てるようにし後に、銃を白い布で包んだ。 「…今夜もか…」 一人、店の台所で呟くと、店主は布で包んだ銃を持ち出し、裏口から店を出た。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 店を出た燎火は、懐から一通の文を取り出した。 紙はもうこの時代には流通していたものの、男への手紙は、紙ではなく"注連縄"の巻かれた縄木簡が使われていた。 木簡は紙に比べれば丈夫であり、湿り気にも強いからである。 縄木簡には朱文字でこう書かれていた。 『兵衛奴助蘇郎 江戸 蔵前 卑属殺シ コノ男ハ卑属を私欲ガ為ニ__』 人名と、地名。そして罪名と、その詳細…。 『卑属殺シ』とは、自分の子や孫を殺した罪のことである。 兵衛奴は、自分の子を殺したのだ。 燎火は縄木簡を懐に戻し、丑の刻の江戸を一人歩いた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「冬の夜はさみぃなぁ…」 一人、夜の江戸を歩いている者がいた。 この男の名は八六。 江戸近辺に住む、しがない本百姓である。 八六は、夜の散歩を日課としており、今日ははるばる浅草の南、蔵前まで歩きに来ていた。 「ん?ありゃ誰だ…」 八六は、蔵の前で男が立っているのを見た。男は、布で包まれた、細長いなにかを持っていた。 その男を、八六は物陰に隠れつつ、ついていくことにした。 どことなくその布を抱えた男に、怪しい雰囲気を感じ取ったからである。 歩き始めた男についていっていると、ある蔵の前で足を止めた。 すると、男は蔵を目にも止まらぬ速さで忍びのように登り、屋根に乗った後、姿を消した。 「な、なんじゃあありゃあ…!?」 八六は大層驚いた。 あれは物の怪か、人に化けた鎌鼬かなにかかと大層驚いた。 其の後である。 タアァアアン!! 「!?」 何かが爆発したような音が、丑の刻の江戸に響いた。 その音の聞こえた方に、八六は走って向かった。 一人の男が死んでいた。 頭には穴が空いており、穴から赤い血と蒸気が吹き出していた。 「こ、こりゃあ…」 八六は死体の前で尻餅をついた。 「鎌鼬、鎌鼬の仕業じゃぁ…物の怪じゃあああああああ!!!」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「タアァアアン!!」 「…また一人、罪人が浮世から消え失せた」 蔵の屋根の上で、燎火は銃で兵衛奴の頭を撃ち抜いた。 この男、燎火は,お天道が出ている昼は江戸で茶屋"福地屋"を経営する店主。 月の顕現する夜、丑三つ刻は江戸の町奉行、大草 高好 直属の"処刑人"。 それも、ただの罪人を処刑する"処刑人"ではない。 遠い大阪の都市、堺で鋳造された鉄砲"火縄銃"を使い、幕府が公には裁けない罪人の死罪を執行する"火縄処刑人"であった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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